【第847回】『ヒッチコック/トリュフォー』(ケント・ジョーンズ/2015)


 1962年ハリウッド、ユニバーサル撮影所内のスタジオ、女性通訳者ヘレン・スコットを介したやり取り。活字で何十回も読み、筆者の本棚の一番よく見える場所に置かれている伝説の名著『定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー』の録音された台詞に思わず鳥肌が立つ。インタビューは時間にして8日間、録音されたマテリアルは何と50時間にも及ぶ。全作品の詳細解説、示唆に富む言葉の数々、そして見開き2ページに載った重要な場面の全カット割り。圧倒的迫力に満ち溢れたこの本の影響は私にとってあなたにとっても計り知れない。NY映画祭のディレクションも務めるシネフィリーであるケント・ジョーンズは、親子ほども年の離れた英国人アルフレッド・ヒッチコックと仏国人フランソワ・トリュフォーの友情を明らかにしながらも、現代でヒッチコック映画を語るに相応しいだろう10人のシネアストに貴重なインタビューを取り、実際のヒッチの映画の様々な引用を用いながら、映画監督アルフレッド・ヒッチコックの「作家性」に肉迫する。1962年当時、ヒッチは既に40数本の映画を撮ったシネアストだったが、それに対しトリュフォーは傑作『大人は判ってくれない』を筆頭に、3本の長編を撮っただけの駆け出しの作家だった。映画1本に匹敵する労力をかけたの言葉にもあるように、60年代後半の不遇だったトリュフォーにとって、64年の『柔らかい肌』と『定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー』は切っても切り離せない関係性にあったと推測出来る。

 英国時代からその後のハリウッド時代まで、信じられないことだが40~60年代のアメリカでのヒッチの作品群には「サスペンス映画の帝王」と云う輝かしいニックネームは付いたものの、その評価は決して高くなかった。そのエヴィデンスとして彼はアカデミー賞に5回もノミネートされながら、一度も受賞していない。アメリカではアカデミー監督であるフランク・キャプラやビリー・ワイルダーよりもヒッチの評価は1ランク下に見られていたのである。しかしその評価を根底から覆したのが、フランソワ・トリュフォーが提唱したオートゥールが真の創造者だと云う「作家主義」だった。51年にフランスで創刊された『カイエ・デュ・シネマ』誌は徐々に影響力を強め、批評家としてジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、エリック・ロメール、クロード・シャブロル、ジャック・リヴェットらを次々に輩出した。その中で最も先鋭的な論陣を張ったのは、若き日のトリュフォーだった。彼は当時のフランスで流行っていたマルク・アレグレやクロード・オータン=ララら巨匠の作品を愚にもつかない凡作だと断罪し、世界に散らばるオートゥール(Auteur)たちの作品だけが真に観るべき映画だと主張した。今作にはロベルト・ロッセリーニ、溝口健二、ジャン・ルノワール、サミュエル・フラー、ロベール・ブレッソン等世界各国のごく僅かなオートゥール(Auteur)たちの華々しい記事が映画を飾る。それはヌーヴェルヴァーグの勃興とも決して無縁ではないはずだ。

 かくしてマーティン・スコシージ、デヴィッド・フィンチャー、アルノー・デプレシャン、黒沢清、ウェス・アンダーソン、ジェームズ・グレイ、オリヴィエ・アサイヤス、リチャード・リンクレイター、ピーター・ボグダノヴィッチ、ポール・シュレイダー。21世紀の監督の中でオートゥールと呼ぶべき比類なきラインナップがヒッチへの憧憬を隠さない。ここにブライアン・デ・パーマやスティーブン・スピルバーグ、ロバート・ゼメキスの姿がないのは大いに不満だが、『マーティン・スコセッシ 私のイタリア映画旅行』以来2度目のロング・インタビューとなる(アメリカではもう少しインタビューしているかもしれないが)スコシージの証言が特に印象に残る。彼の76年作『タクシー・ドライバー』を観ている観客にはスコシージのヒッチの特に『めまい』への憧憬は明らかなのだが、今作では正に58年作の『めまい』へスコシージは口角泡を飛ばしながら、いかに映画史的に素晴らしいかの説明に熱弁を振るう。映画はそこにジェームズ・グレイのドラマチックなテンションを補強した上で、『北北西に進路を取れ』を避けるように、20世紀の映画史上の傑作『サイコ』へ緩やかになだれ込む。

 ジャネット・リーのボディ・ダブル、VHSテープがない時代に名画座で観たフィルムと『定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー』とを食い入るように見つめた衝撃的な惨殺シーンだけが、未だにショッキングに胸に迫る。66年に仏米で刊行された今作が山田宏一によって日本語に翻訳されるまでに、何と15年ものタイム・ラグがあった。今作が初めて刊行された81年のクリスマス、熱狂的な映画ファンにとってこの本は永遠に手放せないバイブルとなった。出来れば若い世代がこの映像を観て、私と同じように『定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー』を手に取り、ヒッチの映画を観て「カット割り」や一流の演出の何たるかを学ぶことを願って止まない。ヒッチの映画には持続する恐怖、リバースする善悪、神の視点、落下の恐怖、夢のオブジェなど今日的なエッセンスが全て詰まっているのだから。

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