【第855回】『ローラ』(ジャック・ドゥミ/1961)


 「泣ける者は泣け、笑いたい者は笑え」という中国の諺。夏の日のある木曜日の午前中、大西洋に面したロワール河の辺りにある港町ナントに白のキャデラックが停車する。車の外に出て、穏やかな流れのロワール河を見つめる男の姿。しばらく波を眺めた後、男は勝手知ったるナントの街をアメ車で闊歩するが、アメリカ軍の水兵の列を誤って轢きそうになる。男はアメリカ兵の罵倒の言葉にも一切応じる様子はない。一方その頃、ロラン・カサール(マルク・ミシェル)はまたしても寝坊をし、会社の業務に支障をきたす。「ナヴァル」の女主人クレール(カトリーヌ・リュッツ)は呆れた表情で、「もう2時ですよ」とロランに問いかける。父親のコネで入社した会社、3日間の研修期間中に実に5度もの遅刻を繰り返すロランに社長は首を言い渡す。「ナヴァル」の常連客で、いなくなった息子ミシェルの姿を追い求めるジャンヌ(マルゴ・リオン)は街でミシェル(ジャック・アルダン)を見たという近所の人の目撃談に目を輝かせる。朝方、ミシェルのキャデラックに轢かれかけたアメリカの水兵フランキー(アラン・スコット)は、暇を持て余し同僚たちとキャバレー「エルドラド」に涼みに入る。そこにはフレデリック夫人(イヴェット・アンツィアニ)に雇われた看板歌手兼踊り子のローラ(アヌーク・エメ)がいた。ガッチリとしたアメリカ兵の姿にシングル・マザーのローラは身を任す。幼い1人息子イヴォン(ジェラール・ドゥラロシュ)を抱えるローラには7年前に「大金を稼いで来る」という言葉を残し、この街を去った愛する夫ミシェルの姿があった。

 カイエ派の神童と呼ばれたトリュフォーに対し、ヌーヴェルヴァーグ左岸派の神童と呼ばれた天才ジャック・ドゥミ30歳の恐るべき長編処女作。父親の仕事の都合で幼い頃からアメリカへ渡っていたロラン・カサールは父の死後、モラトリアムで怠惰な生活を送っていた。文学をかじり、将来への漠然とした不安を抱える主人公の心に残るのは、15年前の初恋の相手であるセシル(現ローラ)との淡い幸せな日々に他ならない。男は常に過去の栄光の日々に郷愁を抱くが、女は既に子供を生み、オペラ座のダンサーになるという幼少期の夢を無残にも捨て去っている。『天使の入江』のヒロインであるジャンヌ・モローを思わせるようなアヌーク・エメのファム・ファタールぶり、それに翻弄される3人の男たち。祖国を捨てた青年実業家、いよいよ祖国に帰ることの出来る帰還兵の対照的な描写、そこに挟まれるようにアメリカから生まれ故郷のナントに帰国した主人公は、出自の鎖とセシルへの淡い想いに囚われて身動きが出来ない。キャバレーのダンサーに身をやつしながら女は7年間、夫の帰りを辛抱強く待っている。しかしイヴォンに理想的な父親が必要だと感じるヒロインは、母国の男性ではなく他国の男に身を委ねる。アムスからヨハネスブルグへ、美容室の危険な誘いに乗りかかるロランの元に運命の女が15年ぶりに現れ、男の心に葛藤が生まれる。2転3転する極めて文学的で先の読めない物語展開、そしてセシルの名を冠した2人の女が主人公とライヴァルの感情を真に対比させる。だがそこには3人目の男の影がちらつく。

 当初はカラーのミュージカル映画として想起され、クインシー・ジョーンズに任せるはずだったスコアだが出資者は出て来ず頓挫する。だが簡単に諦めないドゥミの製作費のシュリンクを逆手に取った新進気鋭の作曲家ミシェル・ルグランの起用、ゴダールの肝煎りにより指名されたラウル・クタールのモノクロームの流麗なカメラワーク、クライマックスのゴーカートの場面の筆舌に尽くし難い素晴らしさ。全てが完璧で新鮮さに満ち満ちた物語は当初、本国フランスでも正当な評価を得ることは出来なかった。しかしながら現代においてその価値は日に日に高まっている。「ヌーヴェルヴァーグの真珠」と呼ばれた幻の傑作である。

【第853回】『天使の入江』(ジャック・ドゥミ/1963)


 湾岸の道を歩くジャンヌ・モローの印象的なアイリス・イン、やがて車は遠ざかるヒロインを後退撮影で据える。8月6日フランス・パリ、銀行員のジャン・フルニエ(クロード・マン)は真面目で堅実な銀行員、母親は既に他界し、時計屋のこれまた堅実な父親との2人暮らし。実直という言葉を絵に描いたような男やもめの暮らしぶり。体調不良で早退した彼を送る同僚のキャロン(ポール・ゲール)の姿。彼は昨日購入したという新車をジャンにこれ見よがしに見せびらかす。「お前のところは金持ちでいいな」というジャンの言葉に対し、キャロンはルーレットのギャンブルで一山当てたんだと自慢する。妻に2年ローンだと嘘をついて買った新車、貧しい暮らしぶりのジャンに対し、お前も今週、ギャンブルに来いよとキャロンは誘い入れる。その日の夜、父親に相談すると「賭博師は怠け者だ」と父親は厳しい口調で罵る。カジノに入り浸るような奴は人間ではないと云う強い調子、堅実な銀行員であるジャンは父親への反発心もあり、同僚とアンギャンの市営カジノへ向かう。白昼夢のような鏡張りの印象的な世界。そこには聖と俗の境界線として多数の鏡が置かれている。フランをチップに変えた後、2人は後ろで喚く1人の女の痴態を目撃する。支配人が彼女を引き摺り回し、これで二度目だからと出入り禁止を言い渡す。ブロンドの髪の女は、取り乱した様子で抵抗を試みるが、男の力の前には為す術もない。ジャンはその日、13と云う数字を頼りに一点買いし、ビギナーズ・ラックで見事に大金を手にするのだった。

 処女作『ローラ』でヌーヴェルヴァーグ左岸派の恐るべき天才として世に登場したジャック・ドゥミは、続く『シェルブールの雨傘』の脚本を既に書き上げていた。愛する妻で3歳年上であるアニエス・ヴァルダとの幸せな新婚生活。妻のヌーヴェルヴァーグ傑作『5時から7時までのクレオ』のカンヌ国際映画祭出品に併せてカンヌに到着したジャック・ドゥミは『シェルブールの雨傘』の出資者を探し回るが、皮肉にも彼の企画には買い手がつかなかった。失意のどん底にあったジャック・ドゥミはカンヌのカジノにうな垂れるように連れて行かれ、奇跡のように今作のアイデアを得る。熱にうなされたような張り詰めた空気、金を巡る人間たちの欲望、その悪魔のような衝動にうなされたドゥミは一心不乱に今作の脚本を書き上げる。かくして幸か不幸か本命の『シェルブールの雨傘』の映画化実現の困難さから適当に生み出された今作は、トントン拍子で出資者を勝ち取り、ジャンヌ・モロー主演で見事映画化される。ジョゼフ・ロージーの62年作『エヴァの匂い』のダメ押しのようなジャンヌ・モローの華麗なるファム・ファタール像。ギャンブル依存症の美しい年上女は夫と離婚し、3歳になるミシューの親権は夫に奪われている。妻の役目を剥奪された女は、実直だが母親の面影を知らないジャンと突然ドラマチックに恋に落ちる。然し乍らそこには男女の機微の違い、ギャンブル依存症と云う精神疾患を抱える女との壮絶な恋愛が待ち構える。パリからニース、そしてモンテ=ネグロへ。男女のファッションの白黒をモノクロームに叩きつけるようなジャック・ドゥミの光と影の色彩感覚。そのあっと驚くような逆転劇。幸運のテーマと天使の入江のテーマを明確に対比させたミシェル・ルグランの煌びやかなスコア、男と女、罪と罰、天使と悪魔、宗教と賭博、愛情と嫉妬、どこを切り取っても完璧な『シェルブールの雨傘』前夜のジャック・ドゥミの何度観ても素晴らしい奇跡のような傑作である。

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