【第862回】『突然炎のごとく』(フランソワ・トリュフォー/1962)


 1912年フランス・パリ、セーヌ左岸14区のモンパルナス。芸術の盛んなこの街でオーストリア人(ドイツ人ではない)のジュール(オスカー・ウェルナー)とフランス人のジム(アンリ・セール)は芸術の話で意気投合し、親友となる。文学という共通の趣味を持つ2人の若者は互いに夢を語り合い、有意義な生活を送っていた。パリで開かれた幻燈会、2人は女性の彫刻の美しさにしばし見惚れる。アドリア海の島の女性の美しい彫像にすぐさま心奪われた2人は、イタリアの突端に旅行するほど理想の女性の姿に惹かれ合った。2人の理想の女性はまったく同じ顔をした女性である。帰国後、友人の誘いで3人の女性と出会うことになった2人は、その中にいたフランス人女性カトリーヌ(ジャンヌ・モロー)の美しさに心奪われる。父はブルゴーニュ地方の名家の生まれで、母は英国人のハーフである彼女は自由奔放な女で、3人はすぐに意気投合し親友同士になる。カトリーヌの鼻の下にサインペンでヒゲを描き、タバコをふかす女の悪ふざけ。男装した姿で3人が鉄橋の上で競争をする場面はフランス映画屈指の名場面に違いない。男2人と女1人の「永遠の三角関係」の幕が開くが、皮肉にも第一次世界大戦が彼らの関係性を引き裂いてゆく。

 ヌーヴェルヴァーグの中で例外的に原作小説を元にした今作は、美術品コレクターだったアンリ=ピエール・ロシェが70代になって発表した生涯2本の小説のうちの1本『Jules et Jim』を元に映画化された。パブロ・ピカソやフランシス・ピカビア、コンスタンティン・ブランクーシ、マルセル・デュシャンらと交友を持ったロシェは20世紀のフランス美術の重要人物として知られながら、70代になり足腰が弱り、過去を振り返りながら書いた恋愛小説が今作だった。トリュフォーは今作のカトリーヌの強い女性像に見せられ、『大人は判ってくれない』に端役で登場したジャンヌ・モローにそれ以前から声をかけ、今作の映画化に漕ぎ着けた。フランス人同士の恋ではなく、フランス人とオーストリア人、英仏のハーフの恋(オマケにもう1人はイタリア人)という50年代にしては風変わりな恋物語、社会のモラルよりも個人の規範に揺れる登場人物たちの心の動きは、多くの女性ファンの共感を生む。ゼロからの再出発という言葉を愛するヒロインの自由奔放で身勝手な愛と次々に変化する女心と情念。当時、絶頂期にあったジャンヌ・モローのファム・ファタールのような凛とした美しさ。女に関する自説を述べた後、それに抵抗するかのようにヒロインが突如セーヌ川に飛び込む序盤の名シーン、明日の19時に約束をしながら、女は美容院の予約で遅れジムとの約束をすっぽかす。

 それから数年後、ジュールと結婚したカトリーヌとの再会の場面、娘のサビーヌがありながら、相変わらず自由奔放なカトリーヌの天性の悪女っぷり。『大人は判ってくれない』の大胆なストップ・モーションではなく、申し訳程度に計算されたストップ・モーションの地味な使用、ヘリコプターによる空撮やクレーン・ショット。ジルベルト(ヴァンナ・ウルビーノ)を愛したはずのジムの心に巣食う女の影。小説由来の物語でありながら、トリュフォーの演出は人間のモーションにフォーカスすることで映画ながらの見事なエモーションを紡いでいる。草原での男と女の追いかけっこ、自転車を漕ぐ3人の躍動感、性急に見える列車のジャンプ・カットなど多くの躍動するショットが3人の心理劇の間に挟まれ、小説原作の物語は映画としての独特なリズムを発揮する。戦争に勝った男と、カトリーヌを射止めた男とはいったいどちらが幸せなのか?彼女のうなじにキスする男の姿を二階のベランダから寂しげな表情で見つめるジュールの姿が目に焼き付いて離れない。60年代初頭には心底ラディカルで身勝手だったカトリーヌのヒロイン像は、21世紀の現代においてはようやく早過ぎた名作としての地位を得る。『大人は判ってくれない』のクランク・アップの5日後に急逝したアンリ=ピエール・ロシェへのトリュフォーの深い思いは今作を経て、10年後の『恋のエチュード』で再び花開くことになる。

【第861回】『大人は判ってくれない 』(フランソワ・トリュフォー/1959)


 車から構えられたパリの風景、ロー・アングルから据えたエッフェル塔の力強い姿。フランス・パリ、季節はクリスマス・シーズン。ヌード・モデルのピンナップを回す教室内、アントワーヌ・ドワネル(ジャン=ピエール・レオ)はモデルの顔に落書きしていたところを担任の先生(ギ・ドゥコンブル)に叱られる。教室の前に立たされる屈辱的な光景、授業終わりに他の生徒に混じり、どさくさ紛れに逃げようとしたアントワーヌは先生に見つかり、罰として黒板を綺麗に磨くよう命令される。たった1人の親友ルネ・ビジェイ(パトリック・オフェイ)と家に帰るアントワーヌは、帰りの遅い父親のジュリアン(アルベール・レミー)と母ジルベルト(クレール・モーリエ)の代わりに夕食の用意をする(それゆえ宿題などやる暇がない)。待ち草臥れた母親の帰宅、ベッドに座り、パンストを脱ぎ捨てる母親の脚のクローズ・アップ。父親も帰り、一家団欒の食事になるかに見えたがどこかぎこちない家族の食卓。父親は小声で母親の作る料理の匂いを揶揄し、アントワーーヌは笑う。翌朝、また先生に怒られることが億劫になったアントワーヌは親友のルネを誘い、遊園地に遊びに行く。回転ドラム式の乗り物にへばりつくローターのアクションのユーモアの後、少年は突如、現実に引き戻される。ルネと2人で歩くアントワーヌは、愛人(ジャン・ドゥーシェ)と母親ジルベルトの街角でのキスを目撃してしまう。

 当初、『アントワーヌ・ドワネルの家出』として企画された短編は、欠席の理由を母親が死んだからだと答える場面を中心に映画化が想起されたが、国立映画庁から破格の金額が出て、長編映画に生まれ変わる。ヌーヴェルヴァーグの作家たちが比較的裕福な家庭に生まれ育ったのに対し、トリュフォーは貧しい家庭の生まれの私生児の1人っ子だった。夫婦の生活は当初から亀裂が入り、母親は外に新たな男を作っていたことが明らかにされるが、非行に走ったアントワーヌのために母親が向かった先での告白のように、父親は本当の父親ではなく、母親の連れ子である。パリの貧しい家に生まれたトリュフォーは両親の離婚から孤独な幼少期を過ごし、素行不良により何度も少年院に送られた。14歳の時に学業を放棄してしまった彼の唯一の生きがいは映画だった。今作には学校をサボったアントワーヌがもぎりの目を盗み、映画館でタダで映画を観る様子が映る。父親の書斎から盗んだ「旅ガイド」、ただ1人憧れたバルザック、隙を見て映画館の壁から剥がしたイングマール・ベルイマン『不良少女モニカ』のハリエット・アンデルセンの宣材写真だけが彼の魂を浄化する。アントワーヌ・ドワネル少年を演じた自身の分身でもあるジャン=ピエール・レオとの運命の出会いはこの後、「アントワーヌ・ドワネルの冒険」シリーズへと拡張して行く。

 凍てつくような冬の夜の寒さに耐えながら、タートルネックで口元を隠すアントワーヌの表情、その後護送車の一番後ろからパリの夜景を眺める少年の焦燥感、「自由」を目指した少年の逃避行とラストの存在しないはずのカメラへのカメラ目線のストップ・モーションという自己矛盾は何度観ても涙腺が緩む名場面に違いない。幼少期のトラウマや焦燥感を長編処女作に刻印したトリュフォーは今作の撮影時、何と若干26歳の若さだった。体育教師とのマラソンの場面はジャン・ヴィゴの1933年作『新学期・操行ゼロ』への愛すべきオマージュであり、後半アントワーヌが街を彷徨う時、犬が逃げたと言って慌てる婦人はジャンヌ・モローであり、彼を言い包めて女に近付くのは若き日のジャン=クロード・ブリアリである。警官役で出演したジャック・ドゥミも含め、ヌーヴェルヴァーグ人脈総出で作られた今作はジャン=リュック・ゴダール『勝手にしやがれ』と並ぶヌーヴェルヴァーグの金字塔として、何度観てもハンケチが欠かせない。父親のいない家庭で育ったトリュフォーは、今作の撮影初日に亡くなった「代父」とも呼ぶべきアンドレ・バザンに今作を捧げている。

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