【第49回】『マッド・シティ』(コンスタンタン・コスタ=ガヴラス/1997)

地方局で取材記者を務めるマックス・ブラケット(ダスティン・ホフマン)は、
野心的な人間で、キー局への返り咲きを狙っていた。

ある日、アシスタントを連れ博物館へ取材に出向き、そこで人質事件に巻き込まれる。
犯人は元警備員サム・ベイリー(ジョン・トラボルタ)。

経費削減のために解雇されたサムは
つい興奮してもう一人の警備員を発砲してしまう。
博物館に人質を取って立て篭る犯人の生中継が始まるのだった。

冒頭、連邦銀行の様子をガラス越しに見つめる男の視線と
銀行内の動きを交互に撮った無駄にカッコいいタイトルバックに
ガヴラスの凡百のアメリカ映画とは違う凄まじい力量がはっきりと見える。

残念ながらスナイパーではなく、取材記者の話なのだが、
偶然入ったトイレの中で、猟銃を持ち、女館長を説得しようと試みる男の姿を目撃する。

猟銃の他に、爆薬をバッグに詰めていたものの、彼に明確な殺意はない。
自らの職場復帰への強い思いを伝えるために持ち込んだ銃の暴発により
意図しないまま犯人になってしまったごく普通の男の姿をトラボルタが演じる。

何の変哲もない一般市民がある日ふとしたきっかけで事件に巻き込まれる。
ガヴラスはどこにでもある日常の風景を、サスペンスへと昇華させている。

かつてはキー局の売れっ子記者だったが、地方に左遷されたマックスの思いと
たったいま経費削減のために失職したサムの思いが段々と通じ合う様を
前半部分ではしっかりと時間を割いて丁寧に描いている。

最初は銃を突きつけられ、興奮した犯人の姿に身の危険を感じたが、
マスコミへの姿勢、見え方を冷静に見極め、的確なアドバイスをするマックスの姿に
徐々に態度を軟化させていくトラボルタの描写が非常に冷静で地に足着いている。

博物館に籠城し、24時間行動を供にする中で、
マックスとサムには奇妙な友情が芽生えているようにも見える。

マスコミの怖さと脆さの両方を理解しているマックスは
必要な部分だけを切り取り、
サムを善良な市民で同情の余地のある人物だと視聴者に思わせようとする。

一見、そのやり方は非常に上手く行っているように見えるが
ある事柄をきっかけにして潮目が急激に変化する。

中盤、マックスの元上司で、彼を地方局に追いやった張本人を登場させることで
立てこもる側と警察とのやりとりだけだった映画の構造に
マスメディアと主人公の境遇を実に自然にねじ込む。

このことが、物語をより重層的で骨太なものにしている。

このマックスの元上司役を、ウディ・アレン作品の常連アラン・アルダが演じているのだが
トラボルタ以上に、ホフマンとアルダとのやりとりが素晴らしく、
ガヴラスもむしろこちら側を描きたかったのではと思わせるほどなのである。

アラン・アルダが扮するのは、一言で言うと鼻持ちならない男で
視聴率のためならば、どんなことでもするしたたかな人間。

彼の登場で歯車の狂った主人公と犯人が
どんどん立場を悪くしていく描写は本当に容赦ない。

マスメディアなんてものは、しょせん伝える側の人間の意図によって右にも左にもなり得る。
映像は、悪意を持って加工するかそのままを流すかで、
幾らでも情報操作が可能なのかもしれない。

犯人の親友を名乗って、TVのインタビューを受けた一般人の描写や
庭に土足で入り込まれた犯人の家族の苛立ちの描写もいちいち不快だが、
それ以上に不快だったのは、マックスの新人アシスタントの心変わりの描写。

こういう権力になびいてしまう人間の弱さを、カヴラスは徹底的に見つめている。

執拗に繰り返されるモニター映像や受像機の描写は、
ある種の現代病と言えるような浸透ぶりを見せるTVというものを
記号的に嘲笑しているように思える。

ホフマンと言えば、70年代屈指の秀作であるパクラの『大統領の陰謀』が思い出されるが、
恐らくガヴラスはこの映画を真っ先に想定し、彼を起用したのは間違いない。

トラボルタの起用は、そのホフマン本人がガヴラスに熱烈にアピールしたのだという。
100%ガヴラスの意向に沿えば、トラボルタの役は別の人物だった気がしてならない。

そういう意味では少し本筋よりも
マスコミの倫理観などの脇道の描写に力を入れ過ぎたきらいはあるが、
地に足の着いた描写は流石コンスタンタンと感心しきりだった。

さすがに『Z』や『戒厳令』や『ミッシング』よりは劣っているが
凡百のアメリカ映画とは一線を画す実に重厚な社会派映画に仕上がっている。

【第16回】『ミッシング』(コンスタンタン=コスタ・ガヴラス/1982)

1973年9月11日、ビノチェット将軍のクーデターにより
当時のアジェンデ大統領の社会主義政権が崩壊する。

映画はその歴史的軍事クーデターに巻き込まれた
あるアメリカ人夫婦とその父親が、政治に翻弄される姿を描いた物語である。

冒頭、全ての出来事は事実であるとの注意書きがなされ、
監督は早々にフィクションの呪縛から逃れる。

政治サスペンスであるにも関わらず、もっともらしい描写を一切しないのだ。

戒厳令の中、銃声が響く屋外をシシー・スペイセクが逃げ惑う姿。
妙にリアルで、本当にそこで戦争が起きているような錯覚に陥る。

累々と積み上げられた死体の山や
天井にむき出しで放っておかれた死体の山のように
この映画の冷静な描写は観ていて本当に容赦ない。

70年代80年代のアメリカ映画最前線だったルメットやレッドフォードのような
政治リアリズムとはまったく違う構造を持っている。

ニューヨークで富を築き、熱心なクリスチャンとして
アメリカの傘の中で自由を謳歌していた1920年代生まれの保守派の男が
勝手のわからない異国の地で本当の人間の姿というものを思い知る。

軍人、政治家、官僚との齟齬や軋轢も本作の重要な核となる部分だが、
それ以上に心に残ったのは、父親と義理の娘の関係性の回復である。

楽観的なリベラル主義者の息子世代に対して、
ひたすら冷淡だったジャック・レモン扮する父親が
失踪してしまった息子とその妻を許すにいたる思想の変化・変節こそが
この映画の本質的な部分であるように思えてならない。

競技場で拡声器を使って、息子を探し出そうとする父親が
息子の嫁にたしなめられる場面の残酷さには文字通り言葉を失う。

ある意味人殺しのシーンよりも冷酷で残酷な描写である。

政治とは?テロとは?クーデターとは?
その中で国境の外に住む家族が出来ることとはいったい何なのか?

政治に翻弄される一組の義理の親子の姿に、自分を重ねてしまう。
40数年経過した今の方が、リアルタイムよりも強度を持つ希有な作品である。

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