【第860回】『ウイークエンド』(ジャン=リュック・ゴダール/1967)


 フランスのパリの高級住宅街、夫婦は早朝から昨日、交差点で7人が死んだというニュースを平然と語る。マンションの上階にけたたましいサイレンの音が鳴る。ぶつけられた方は怒り心頭で外に出て抗議するが、逆に暴力的なカップルにゴルフ・クラブでボコボコに殴打される。その様子をカメラは超ロングの俯瞰ショットで据える。ロラン・デュラン(ジャン・ヤンヌ)と下着姿の妻コリーヌ・デュラン(ミレーユ・ダルク)の分析と称した冗長な会話。30歳になったばかりだというのに、既に5回の離婚歴のある男は、義父の莫大な遺産をかすめ取ろうと目論むプチブルで妻をたぶらかし、土曜日の午前10時、妻コリーヌの両親の住むオワンヴィルへ向かう。パリの日常風景と題された道路は300mにも渡り渋滞し、あちこちでクラクションが鳴らされている。ゴダールとラウル・クタールのカメラは、横スクロールする光景をおよそ300mの長回しで据える。黒のアルファロメオが向かう先には、牛車や馬車が混じり、草むらを歩く人間がいれば、へたれ混んで横になる人もいる。夫婦は大渋滞とけたたましいクラクションの音に苛立ちを隠さず、少々強引に追い抜こうとするが、後ろを走る車のフロント部分に触れてしまう。埒が明かない夫婦は農道を抜け、近道を通ろうとする。

 今作は60年代のジャン=リュック・ゴダールの痛烈な不条理劇に他ならない。漁夫の利を得ようとしたプチブル夫婦の平和なヴァカンスは有り得ない冗談のような非現実的な出来事に次々に出くわし、その度に脱臼していく。ゴダール=クタール・コンビのショットの選択はこれまでのようにクローズ・アップで被写体に寄るのではなく、突き放すようなロング・ショットでフレームの中の光景を現実から非現実の光景へ異化する。明らかにボリュームを間違えた劇伴、300mにも及ぶ長回し、360°パンをおよそ3周するポール・ジェゴフのモーツァルトのピアノ・ソナタ第17番の牧歌的な風景とロランの生あくび。緑のトラクターと赤のトライアンフの激突、皆殺しの天使、アレクサンドル・デュアと神の息子、古代の石と羊たちの群れ、そして焼けたエルメスのバッグ。痛烈なマテリアリズム批判となった『気狂いピエロ』同様に、今作は資本主義の歴史への退行と階級社会へのアンチテーゼと成り得る。コンゴ人と第三世界を見つめ、いよいよ混沌とする物語は説話的話法からどんどん自由になろうとする。ブニュエルの『皆殺しの天使』からエイゼンシュタインの『戦艦ポチョムキン』、そしてジョン・フォードの傑作『捜索者』へ。ロメールの日記風な順撮り系式なフェアな物語に対し、今作の脈絡の無さは明らかに観客の心を逆撫でし、ただただ混乱させる。

 「セーヌ=エ=オワーズ解放戦線」の指導者ジャン=ピエール・カルフォンのスキゾなリズムを刻むドラミング、端役に過ぎなかったジュリエット・ベルトの輝きは、来たるべき21世紀のテロの時代をオリヴェイラのように見事に見据えている。ゴダールは今作をもって、アメリカ映画的なストーリーテリングを持つ商業映画からの逸脱、弟分だったトリュフォーとの決別を同時に宣言し、以降ゴダールではなく、ジガ・ヴェルトフという共同体の内の1人として急速に政治色を強める(カルト化する)。それは皮肉にも59年から続いた映画史的な革命時代である「ヌーヴェルヴァーグ」時代の歴史的な終焉となった。クライマックスのコリーヌの決定的な「つなぎ間違い」は処女作『勝手にしやがれ』の「ジャンプ・カット」を暗喩するだけに留まらず、急速に左傾化したジャン=リュック・ゴダールと盟友だったカイエ派の論客だったトリュフォー、ロメール、シャブロル、リヴェットらの絶縁をも意味する。内在的に脱臼し続けたゴダール映画の編集リズムは、以降政治的に盟友たちへの表立った批判となり、ヌーヴェルヴァーグは内側から崩壊して行く。五月革命の機運に乗り、トリュフォーもゴダールもポランスキーやルイ・マルも立ち上がった運動は今となっては後のヌーヴェルヴァーグ崩壊のきっかけとなる。その発端に位置するゴダールのフィルモグラフィにおいて忘れられない1本である。

【第859回】『気狂いピエロ』(ジャン=リュック・ゴダール/1965)


 浴槽に浸かりながら、「ピエロ」と呼ばれるフェルディナン・グリフォン(ジャン=ポール・ベルモンド)は幼い娘を呼び、小説を読み聞かせるが娘はほとんど関心を示さない。男はイタリア人の富豪の娘と結婚しマンションを構え、そこに2人の子供と暮らしていた。息子は今週3度目の映画鑑賞に入り浸り、ピエロは妻の実家エスプレッソ邸のパーティに嫌々参加するが、すぐに飽きて帰る。家主のいない住宅に戻ると、そこにはマリアンヌ・ルノワール(アンナ・カリーナ)が椅子に座ったまま眠りこけていた。もう終電の時間はないとピエロは伝えると、自家用車でマリアンヌを家まで送る。スクリーン・プロセスと循環的な光の移動。2人は5年前、恋愛関係にあったが既に破局していた。男は結婚し、女には新しい彼氏がいたが、ピエロは男と別れろと言う。マリアンヌの部屋、開け放たれたドアと開放感のあるベランダ、再会を喜ぶ2人の隣の部屋のベッドの上に倒れた血まみれの死体、愛人を瓶で殴り殺したマリアンヌとピエロは、赤のプジョー404で逃げ去る。だが組織の非情な掟は、マリアンヌだけではなくピエロにも迫っていた。兄を探さなければと願うヒロインに対し、今の生活の全てにうんざりし疲れ切っていた男は南仏への逃避行を試みる。

 男と女、拳銃と自動車のモチーフは明らかにジャン=リュック・ゴダールの処女作『勝手にしやがれ』の延長線上にある。『勝手にしやがれ』では犯罪を犯した男の誘惑に女が乗っかるが、今作では男の現実逃避の欲望が、ファム・ファタールなヒロインの犯罪と結びつき、善良な市民であったはずのピエロは一貫して組織に追われる羽目になる。だがジャン=ポール・ベルモンドの背中には悲壮感が微塵も感じられない。『勝手にしやがれ』の脱臼するような変則的な編集のリズムの快楽は失われたものの、その代わりにゴダールのコンテクストはより重層化し、緊張感のあるショットとショットとは互いに影響を及ぼし合う。ジャンプ・カットよりも強烈なスクリーン・プロセスの運転場面、ワイドを意識したスコープサイズのロング・ショット、空や水の青々としたイメージに対し、ヒロインの服や最初に逃亡した愛車、鮮血の色などの真っ赤な原色の対比が鮮明に効いている。ピエロは欧米の現代社会に蔓延する物質主義からの逃亡を願い、男の希望は満たされたかに見えるが、米ドルを燃やしてしまった辺りから、男と女の違和感が徐々に噴出する。男は「思想」で言葉を語り、女は「感情」で社会と向き合う。マテリアリズムを破棄した男の姿に当初、女は安堵の表情を浮かべるが、その生活が長く続けば続くほど、檻に入れられた女の「感情」は疼く。車と拳銃とナイトクラブと自動車泥棒、そして女の裏切りに端を発する物語はアルチュール・ランボーの『地獄の季節』の印象的なフレーズで幕を閉じる。

【第858回】『勝手にしやがれ』(ジャン=リュック・ゴダール/1959)


 パリ・マルセイユ、火曜日の朝。女はミシェル・ポワカール(ジャン=ポール・ベルモンド)に目で合図を送り、ミシェルは絶妙なタイミングで石畳の上に現れる。コンバーティブルのデ・ソト、アメリカ人士官が乗っていた車に間髪入れずに乗り込み、エンジンを蒸す。大声で歌を歌いながら、車はどんどんスピードを上げる。女の運転するアルファ・ロメオを抜き去り、ヒッチハイクの少女を無視し、一路パリへ向かうのだが、黄色いラインを越えたところを白バイ隊員に目を付けられる。横道に逃げ込んだミシェルはやおらリヴォルヴァーを引き抜き、警官を殺めてしまう。男はパリでパトリシア・フランキーニ(ジーン・セバーグ)というアメリカ女を探していた。同棲した元カノの部屋から金をせびった後、新聞社編集部を訪ねる。「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」という若い女の甲高い掛け声。シャンゼリゼ通りの真ん中にミシェルの意中の女パトリシアの姿はあった。新聞社のロゴのTシャツの下は透けるようなノーブラで、タイトなブルー・ジーンズが眩しい。男は女の背中を数十mそっと追いかける。ストリートで強い視線を感じた女は、そっと男の方を振り向く。

 数週間前、コート=ダジュールで出会ったベリー・ショートの運命の女に、ハンフリー・ボガードに憧れる痩せ身で179cmの長身の男は恋をする。短絡的な殺人をしてしまった男はやがて7号線殺人犯として指名手配となり、新聞の紙面を賑わせる束の間の有名人へ。美しい女とやくざな男、意地悪な女と優しい男の対比、そこに拳銃が一丁あるだけで優れた映画は出来上がることを今作は雄弁に物語る。モーツァルトのクラリネット協奏曲とマルシャル・ソラールのオフビートなジャズ、アナーキストとシャンゼリゼ通り、尻軽女と自動車泥棒、ボーダーのTシャツにサングラス、賭博師ボブと西部劇、ピンナップ・ガールとテープ・レコーダー、イタリア人写真家とジャン=ピエール・メルヴィル、パブロ・ピカソにピエール=オーギュスト・ルノワールの絵など、幾つもの印象的なイマージュがバラバラに散りばめられ、独特の詩情を炙り出す。郵便用手押し車の影に隠れたラウル・クタールのカメラ、ハワード・ホークスの『暗黒街の顔役』を思わせるクライマックス、これ以降禁忌としたゴダールには珍しいアイリスやディゾルヴの使用、完成時、135分だった映画の90分への短縮を可能にしたジャンプ・カットなど、今作には文学由来ではない幾つものオフビートな映像の快楽が溢れ出している。シンプルな物語を補強するような重層的なコンテキストの木っ端微塵な破壊、刹那的な運命に身を委ねる男と女の不意打ちのリズムと漂流するジャズ、思春期に初めて観てから100回以上観ているが、何度観ても奇跡的な何かにただただ打ちのめされる。

【第42回】『たのしい知識』(ジャン=リュック・ゴダール/1968)

五月革命の直後に自分たちの体験を総括する3人の学生と2人の労働者たち。
その姿を五月革命当時の白黒映像とともに綴った映像叙事詩。

毎年二作、コンスタントに映画を撮り続けたJLGの作品群は
ヌーヴェルバーグ世代の作家の中でも最も順調に成功を収めていたかに見えた。

しかし1967年夏、一方的に商業映画との決別を宣言したJLGは
一旦『ウェークエンド』で一つの高みに昇った流れを完全に断ち切る。

直接的には五月革命に付随するカンヌ国際映画祭粉砕事件がこの決定的な契機となる。
トリュフォー、ルルーシュ、ルイ・マル、ポランスキー、フォアマンら
当時世界の映画界をリードしていた若手監督たちが、上映と審査の中止を求めストライキを起こす。

その結果、68年のカンヌ国際映画祭は中止に追い込まれた。

このことはJLGにとっては完全な勝利だと思われたが、
それぞれの政治的スタンスのズレは決定的となり、親友だったトリュフォーと決別。
それが原因でヌーヴェルヴァーグは終焉を迎える。

毛沢東主義を掲げた『中国女』で既に政治的なスタンスで映画と向き合っていたJLGは
これ以降、商業映画には完全に背を向け、
自らの政治思想を発表する手段として映画を撮ることになる。

その際、JLGの署名は捨て、
ジガ・ヴェルトフ集団を名乗り、匿名的な活動を続けていく。

本作はその最初の1本となって作品である。

登場人物は3人の学生と2人の労働者たちで
最初から最後まで草むらで五月革命に関するディスカッションを行っている。

切り返しやショット割りなど、およそ商業映画が持つべき要素を全て捨て、
5人の表情や身振り手振りは一切出て来ない。

40分過ぎにわずかに労働者の顔が確認出来るが、
3人の学生たちは後ろ姿だったり、首から下のショットだったりして、
あからさまにフレームから外されている。

五月革命という同じ題材について話しているのに
決定的にすれ違う3人の学生と2人の労働者の政治思想と解釈。

それが台詞を順番に読むのではなく、即興的な議論が続くから、
どの声が誰の声なのか純粋に耳をすませなければならない。

ルノー・フラン工場の労働者とナンテールの学生は互いの連帯を模索し合う。

ここでは5人に明確なキャラクター設定も当然ない。
おそらく台本もなければ、リハーサルもないだろう。
だからこそ生々しく言葉が響いたり、響いてこなかったりする。

そしてその議論の途中に唐突にインサートされる五月革命のモノクロ映像。
これも議論の中に出て来た言葉と必ずしも関わり合いのないところで唐突にインサートされる。
美しいというよりは、淡々とした記号的な記録映像の数々。

恐らくそれらの映像は、ゴダールのものではないだろう。
一応クレジット上はゴダールとリュプチャンスキーの署名になっているが
明らかに匿名の誰かが記録として撮り貯めた映像を使っている。

ただし、クライマックス前の映像だけはゴダール自身がカメラを回していると思う。
それ以外の映像に、JLGらしさは微塵も感じられない。

そもそもこの映画の中には、過去のモノクロ・フッテージを除いて
人物の運動がどこにもない。

草むらの中に、無造作に置かれた固定カメラには演出がまったく介在しないし、
5人の人間の署名も一切の運動もみられない。

カメラは一応、数回場所を移動しているが、
そこに監督の明快な意図を見いだすことは最後まで出来なかった。

この映画に対して、「前衛」という形容をする人もいるが、
これはいわゆる前衛映画の範疇の作品ではない。

五月革命という20世紀のフランス最大の革命といえる歴史的事件を
一切の商業主義的な作業を放棄し、
映画にすること自体を拒否し、ただの映像であろうとした映像の羅列の中で
それでもなお生々しく据えようとしたJLGの実験作である。

今回内覧用のサンプルを頂き、数年前のBOX化以来で再見したが、
あの時からHDリマスターで劇的に変わったような感じはしなかった 笑。

ただ単品で所有出来ることは、有り難い限りだと思う。
管理人的には、ジガ・ヴェルトフ集団の署名のある作品の中で
最も純粋に商業映画との決別をはかった作品だと位置づけている。

これに乗れたら、おそらく全てのJLG作品に簡単に乗れるはず 笑。

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