【第42回】『たのしい知識』(ジャン=リュック・ゴダール/1968)

五月革命の直後に自分たちの体験を総括する3人の学生と2人の労働者たち。
その姿を五月革命当時の白黒映像とともに綴った映像叙事詩。

毎年二作、コンスタントに映画を撮り続けたJLGの作品群は
ヌーヴェルバーグ世代の作家の中でも最も順調に成功を収めていたかに見えた。

しかし1967年夏、一方的に商業映画との決別を宣言したJLGは
一旦『ウェークエンド』で一つの高みに昇った流れを完全に断ち切る。

直接的には五月革命に付随するカンヌ国際映画祭粉砕事件がこの決定的な契機となる。
トリュフォー、ルルーシュ、ルイ・マル、ポランスキー、フォアマンら
当時世界の映画界をリードしていた若手監督たちが、上映と審査の中止を求めストライキを起こす。

その結果、68年のカンヌ国際映画祭は中止に追い込まれた。

このことはJLGにとっては完全な勝利だと思われたが、
それぞれの政治的スタンスのズレは決定的となり、親友だったトリュフォーと決別。
それが原因でヌーヴェルヴァーグは終焉を迎える。

毛沢東主義を掲げた『中国女』で既に政治的なスタンスで映画と向き合っていたJLGは
これ以降、商業映画には完全に背を向け、
自らの政治思想を発表する手段として映画を撮ることになる。

その際、JLGの署名は捨て、
ジガ・ヴェルトフ集団を名乗り、匿名的な活動を続けていく。

本作はその最初の1本となって作品である。

登場人物は3人の学生と2人の労働者たちで
最初から最後まで草むらで五月革命に関するディスカッションを行っている。

切り返しやショット割りなど、およそ商業映画が持つべき要素を全て捨て、
5人の表情や身振り手振りは一切出て来ない。

40分過ぎにわずかに労働者の顔が確認出来るが、
3人の学生たちは後ろ姿だったり、首から下のショットだったりして、
あからさまにフレームから外されている。

五月革命という同じ題材について話しているのに
決定的にすれ違う3人の学生と2人の労働者の政治思想と解釈。

それが台詞を順番に読むのではなく、即興的な議論が続くから、
どの声が誰の声なのか純粋に耳をすませなければならない。

ルノー・フラン工場の労働者とナンテールの学生は互いの連帯を模索し合う。

ここでは5人に明確なキャラクター設定も当然ない。
おそらく台本もなければ、リハーサルもないだろう。
だからこそ生々しく言葉が響いたり、響いてこなかったりする。

そしてその議論の途中に唐突にインサートされる五月革命のモノクロ映像。
これも議論の中に出て来た言葉と必ずしも関わり合いのないところで唐突にインサートされる。
美しいというよりは、淡々とした記号的な記録映像の数々。

恐らくそれらの映像は、ゴダールのものではないだろう。
一応クレジット上はゴダールとリュプチャンスキーの署名になっているが
明らかに匿名の誰かが記録として撮り貯めた映像を使っている。

ただし、クライマックス前の映像だけはゴダール自身がカメラを回していると思う。
それ以外の映像に、JLGらしさは微塵も感じられない。

そもそもこの映画の中には、過去のモノクロ・フッテージを除いて
人物の運動がどこにもない。

草むらの中に、無造作に置かれた固定カメラには演出がまったく介在しないし、
5人の人間の署名も一切の運動もみられない。

カメラは一応、数回場所を移動しているが、
そこに監督の明快な意図を見いだすことは最後まで出来なかった。

この映画に対して、「前衛」という形容をする人もいるが、
これはいわゆる前衛映画の範疇の作品ではない。

五月革命という20世紀のフランス最大の革命といえる歴史的事件を
一切の商業主義的な作業を放棄し、
映画にすること自体を拒否し、ただの映像であろうとした映像の羅列の中で
それでもなお生々しく据えようとしたJLGの実験作である。

今回内覧用のサンプルを頂き、数年前のBOX化以来で再見したが、
あの時からHDリマスターで劇的に変わったような感じはしなかった 笑。

ただ単品で所有出来ることは、有り難い限りだと思う。
管理人的には、ジガ・ヴェルトフ集団の署名のある作品の中で
最も純粋に商業映画との決別をはかった作品だと位置づけている。

これに乗れたら、おそらく全てのJLG作品に簡単に乗れるはず 笑。

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