【第41回】『荒野の千鳥足』(テッド・コッチェフ/1971)

若い教師ジョン・グラント(ゲイリー・ボンド)は、
大都会シドニーから教育省の命令で
何もない僻地への赴任を強いられている。

クリスマス休暇で恋人の待つシドニーへ帰る途中、
とある田舎町に一泊することになった。

たまたま一泊のつもりで入った酒場で見知らぬ人たちにビールを奢られ、
気持ちが大きくなった彼はギャンブルに手を出し、いつの間にか無一文になってしまう。

昨年、失われたと思っていたフィルムが見つかり、
製作から40年以上の時を経て、日本初公開されたコッチェフ幻の映画。

これがそこまで期待していなかったわりに、すこぶる面白かった。

まず冒頭、建物も歩行者も一切何もない砂地で
カメラがゆっくりと360℃回転するところが凄い。

シドニーとの対比で、この町の退屈さがそのショット一つで露になる。
その後も引きの絵中心で、退屈な町の中で暮らす主人公を冷静に据える。

ここまでロング・ショットに張りがある作品は久方ぶりに観たかもしれない
と思うほど、冒頭の10分間で完全に気持ちを持って行かれる。

とある田舎町で一泊しようと、偶然潜り込んだ酒場の狂乱ぶりが凄まじい。
アメリカ映画では大抵、田舎町の酒場には常連客と閉鎖的な空間と相場が決まっているのだが、
この田舎町の酒場のよそ者に対する感心がまず異常過ぎて怖いくらい。

アメリカ映画ではよそ者はとことん冷たくされるのだが、
この映画では酒を何杯も奢られるし、とにかく気軽に話しかけて来る。

この描写で真っ先に思い出したのは、同じコッチェフの『ランボー』の光景。
あの映画では、まさによそ者に冷淡な地方警察の暴力を描いていた。

しかしこの映画ではそれとは真逆の常軌を逸した優しい接待ぶりがかえって怖い。
ここで意味有りげにドナルド・プレザンスが出て来るのだが、
彼を筆頭に、チップス・ラファティやジャック・トンプソンが
果たして敵なのか味方なのか容易に判別がつかないところがコッチェフの演出の妙である。

その不穏さをずっと残したまま、ある家の女との情事未遂を経て、酔いつぶれた先で
ドナルド・プレザンスとの再会を果たしたところから物語は一気に不穏な空気になる。

泥酔状態でも一瞬で目が覚めるような残酷な狩猟シーンを前にしても
主人公の酔いは一向にさめる気配はない。

あのカンガルーの狩猟シーンの直視出来ない残虐な描写にはやや閉口した。
今なら確実に動物愛護団体の抗議でお蔵入りになるだろうし、
ラストのことわりのように、実際にプロの狩猟シーンだったのかも怪しい。

そもそもプロのカンガルー狩りは夜に行われることはほとんどないはず。
さすがに役者はすり替えだろうが、あの場面が実際に行われた可能性は極めて高い。

その後、かなりの酩酊状態で光のシャワーを浴びた主人公は
ドナルド・プレザンスの本性を知るわけだが、
ここの大袈裟なショット群は、主人公の理性が飛んだことを同時に示唆してもいる。

それは話が前後するが、酒場でお金を増やそうと欲を掻いたシーンも同様である。

子供たちに英語を教える真面目な新任教師の理性の崩壊が、
博打、情事未遂、カンガルー狩りと執拗に描写され、
最終的に意識を失うほんの数分前の行為が、彼に大きな罪の意識を芽生えさせる。

それでもこの時点で、主人公に同情的な意見を持つ観客は皆無だろう。

公開当時、この映画を観たスコシージは
「凄まじいほどに不快な映画だ。観る度に皮膚の裏側に衝撃が走る。」
と、ある意味最高の褒め言葉を残したらしい 笑。

実にスコシージらしいエピソードではないか 笑。

『ウルフ・オブ・ウォールストリート』のディカプリオよりも
数倍馬鹿なドランカーでジャンキーが40数年前のオーストラリアには存在した。

オーストラリアの荒涼とした風景をここまで利用し、
ここまで露悪的に描き切ったコッチェフのしたたかさもまたとんでもない。

『マッドマックス』から遡ること8年前に、
こんな不健全な映画があったことを、我々は十分肝に銘じるべきだろう。

もしこの映画がアメリカ映画の中から出て来ていれば、
クライマックスを多少変更して、
しれっとアメリカン・ニュー・シネマの範疇に収まっていたに違いない。

71年という年は、『ダーティハリー』の不健全さを
アメリカ国民がもれなく受容した年として記憶に残る年である。

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