【第696回】『レイジング・ブル』(マーティン・スコシージ/1980)


 1941年ニューヨーク、ガウンを羽織りながら、試合開始のゴングを待つ1人のボクサー、相手のいない無人のリング、リングの上で軽快にフットワークする男のスロー・モーション、Pietro Mascagniの『カヴァレリア・ルスティカーナ』が流れる中、モノクロ映像に映された拳闘士のあまりにも美しい姿。それから23年後の1964年ニューヨーク、バルビゾン・プラザ・シアターの楽屋には、エリア・カザンの傑作『波止場』のシナリオの一節をくり返すジェイク・ラモッタ(ロバート・デ・ニーロ)の姿があった。その体はぼってり太り、ミドル級時代の均整の取れた姿を見るべくもない。彼はかつて「ブロンクス・ブル (Bronx Bull)」や「レイジング・ブル (Raging Bull)」と呼ばれた世界ミドル級チャンピオンだった。1941年クリーブランド、デビュー以来無敗を誇っていたジェイクは初めての屈辱を味わうこととなる。7回にダウンを奪ったにもかかわらず、不可解な判定で初めての黒星を喫する。怒りの収まらない彼は妻や弟でマネージャーのジョーイ(ジョー・ペシ)に当たり散らす。昼間から酒を呑み、誰彼構わず当たり散らす粗暴な男。ユダヤ人の妻とは喧嘩が絶えない。映画『タクシードライバー』においてトラヴィス(ロバート・デ・ニーロ)が白いドレスを着た美しい選挙運動員の女ベッツィ(シビル・シェパード)に心奪われたように、ある日ジェイクはプールサイドで印象的な女性ヴィッキー・セイラー(キャシー・モリアーティ)を目撃し、恋に落ちる。

 実在のボクサーであるジェイク・ラモッタの栄光と挫折の人生はどこまでも甘美でほろ苦い。19歳でプロデビューし、類稀なタフネスとスタミナ、恐れを知らぬブルファイトで徐々に実力と知名度を上げていったジェイクは導入部分で不可解な判定負けを喫する。その後連戦連勝で1943年、デトロイトでボクシング史上最高の名選手と評される拳聖シュガー・レイ・ロビンソンと初めて対戦する。結果は10回判定勝ちでロビンソンにアマ・プロを通じ初の黒星を与えた選手となる。だが同年に行なわれた再戦で今度は判定負けを喫してしまう。スコシージの映画では決まってリトル・イタリーに生きるイタリア系移民が登場したが、そこにはマフィア組織との断ち切れない関係があった。イタリア人の父とユダヤ人の母の元に生まれたジェイクとジョーイの兄弟は、八百長試合を強いる組識との付き合いが絶えない。それと同時にジェイクが愛した女ヴィッキーもマフィアと交友関係のある女だった。やがて組織のボスであるトニー・コモ(ニコラス・コラサント)の悪魔の誘惑に負けた2人は1947年、次の世界挑戦を条件に八百長試合を承諾する。1947年11月14日、ビリー・フォックスに4回TKOで敗れるが、無気力試合だと揶揄されて客席からブーイングを浴びる。この事件がきっかけでジェイクはボクシング機構から出場停止処分を言い渡される。波乱に富んだボクシング人生の一方で、子供にも恵まれ、愛する妻ヴィッキーとの家庭は円満に見えるが、ジェイクはこの頃から嫉妬と猜疑心に塗れた「妄執」に取り憑かれ始める。その様子はスコシージの『アリスの恋』において、突然キレて手がつけられなくなったベン(ハーヴェイ・カイテル)の姿を彷彿とさせる。

 主人公ジェイクと弟ジョーイ、最愛の妻ヴィッキーとの奇妙な三角関係は、同じくスコシージの『ミーン・ストリート』において、仲間たちにお金を借りまくった挙句、コミュニティから孤立したジョニー・ボーイ(ロバート・デ・ニーロ)と彼の親友チャーリー(ハーヴェイ・カイテル)、ジョニーのいとこで、チャーリーと密かに付き合うテレサ(エイミー・ロビンソン)の三角関係に近い。『ミーン・ストリート』ではジョニーを救済することが、信心深いチャーリーには贖罪につながると信じていたが、今作で深い妄執に囚われ始めたジェイクはもはや『タクシードライバー』の主人公トラヴィスのように狂気の世界へひた走る。スコシージは『タクシードライバー』の成功の後、77年の『ニューヨーク・ニューヨーク』の興行的大失敗により、深い鬱を患っていた。今作の企画を最初に持って来たのは、鬱病に苦しむスコシージの見舞いにやって来たロバート・デ・ニーロだった。後に「デ・ニーロ・アプローチ」とも称されることになる役柄に完全に入り込むデ・ニーロは今作の主人公ジェイクを演じるために、25kgの増量に果敢にも挑戦した。モノクロで撮影された映像は男たちの肉体に拳がめり込む姿を壮絶なリアリティで描写する。鉛のようなパンチに男たちの肉体は軋み、汗や血潮が飛び散り、制御不能となった男たちの身体はキャンバスへ沈む。クライマックスのシュガー・レイ・ロビンソンとの通算6度目の死闘では、ロープを背負いながら、拳聖の拳を何度も食らいながらも決して倒れない。チャンピオン・ベルトからダイヤを抜こうとトンカチで壊す場面や、留置所のコンクリートの壁に何度も拳と額を打ち付ける場面も壮絶に素晴らしいが、モノクロ映像で撮られた男たちの映像の中に、わずかに登場したパートカラーの場面、ヴィッキーとの出会いの場所で撮影されたプールサイドの8mmフィルムの結婚式の様子だけが、もう二度と繰り返す事の出来ない輝かしい過去を思い出させ、不意に涙が溢れる。

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