【第701回】『最後の誘惑』(マーティン・スコシージ/1988)


 紀元前1世紀のパレスチナ。断食をし、自分の身体に鞭打つナザレの高僧イエス(ウィレム・デフォー)は、まだ降りて来ることのない神からの啓示を待ちわびていた。彼は十字架を作りながら、救世主はまだかと唱える毎日を送る。ユダヤ教会からイエスの刺客に命ぜられたユダ(ハーヴェイ・カイテル)は、「救世主は来ない」とイエスに嘯くものの、彼の弱々しい精神はユダの甘言に少しも揺らぐことはない。砂漠で神に清められたというイエスの姿に畏怖に似た念を抱き、しばらく殺さずに彼と行動を共にすることにした。イエスとユダの2人はやがて、村の人々に「淫売のユダヤ人」と蔑すまれ、折檻をうけているマグダラのマリア(バーバラ・ハーシー)を救おうとする。群衆に必死に「愛の力」を説くイエスの姿に、ユダは彼こそが国を統一する救世主かも知れないと思い始める。

 イエスはやがて、洗礼者ヨハネ(アンドレ・グレゴリー)の死を知って悪魔と戦う決意を示し、ガリラヤ湖周辺で目の見えない若者の目を見えるようにし、3日前に亡くなった死者を墓から蘇らせる。人智を超えた能力を見せる彼の評判は次第に高まってゆく。だがファリサイ人の商いの場と化してしまっているエルサレムの神前で怒りをあらわにするイエスを、ユダヤ教司祭たちは尊大な奴と苦々しく思い始める。今作は聖書では「裏切り者」として広く知れ渡るユダの人物造形を、むしろイエスを鼓舞し、叱咤激励する人物として描く。対するイエスは不出来な弟子たちを連れての道中、自分自身が神により殺められようとしていることに気付き、神の存在に恐れ慄く。リトル・イタリーのチンピラ風情がどうしてもちらつくハーヴェイ・カイテルに対し、今作でスコシージはイエス・キリスト役に勝手知ったるロバート・デ・ニーロではなく、まだ線の細かったウィレム・デフォーを起用する。粗暴なユダと繊細なイエスとの対比が極めて鮮明に映る。この斬新な解釈は賛否両論を巻き起こしたが、タブーを乗り越え、価値観の転覆を繰り返して来たスコシージの面目躍如と言える。

 過越の祭の夜、捕われて鞭打ちの刑に処されたイエスは、ローマ総督ピラト(デヴィッド・ボウイ)にゴルゴダの丘での処刑を命じられる。手首に大釘を打ち付けられるイエス・キリストの姿は、『明日に処刑を…』で列車に磔にされた"ビッグ"・ビル・シェリー(デイヴィッド・キャラダイン)を真っ先に連想する。あの時ヒロインのバーサ・トンプソンとして愛した男が処刑される姿を残酷に見つめていたバーバラ・ハーシーが、今度はマグダラのマリアとしてイエス・キリストの最期の瞬間を見つめている。しかし映画は磔にされたキリストの姿では簡単に終わらない。スコシージが真に描きたかったのは、むしろ磔にされた後の30分だったのではないかと思うほど、クライマックスの展開は神と人間の間で引き裂かれたイエス・キリストの俗人としての葛藤を圧倒的な描写力で描く。

 これまでどんな苦難に縛られてもその都度、問題を克服して来た地上神となった男は、処刑の瞬間、神と人間の狭間で揺れ、天使と称した「悪魔の誘惑」に屈する。「世界を救うなんて思い上がり、本当に救いたいのはあなた自身」という悪魔の囁きは、『ミーン・ストリート』のチャーリー、『タクシードライバー』のトラヴィス、『レイジング・ブル』のジェイク・ラモッタ、『アフター・アワーズ』のポール・ハケットら神経症的な主人公たちの起源に属する主人公イエス・キリストの孤独を声高に叫ぶ。スコシージの映画において孤独な人物たちは、しばしば他人を救うことで自らも救われようとする。しかし彼らの魂は一向に救済されることはない。カトリック教徒たちの逆鱗に触れながらも、スコシージはイエス・キリストの存在に1つの答えを提示する。足掛け16年にも及ぶスコシージの情熱は今作で身を結ぶが、今となっては長尺化への転機となった作品でもある。

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