【第702回】『グッドフェローズ』(マーティン・スコシージ/1990)


 「This Film Is based on a true story」という文字、車の走行音に乗せたアヴァンタイトル、1970年ニューヨーク、いかつい姿の3人を乗せたポニーカーが、人気の無い暗がりへ向かい、ゆっくりと蛇行しながら走っている。運転するのはヘンリー・ヒル(レイ・リオッタ)、助手席ではジェームズ・“ジミー”・コンウェイ(ロバート・デ・ニーロ)が、後部座席ではトミー・デヴィート(ジョー・ペシ)が睡魔に襲われるようにうとうとしている。その道中、リアゲートから何やら怪しい物音がして、ジミーとトミーは運転手のヘンリーの大声で叩き起こされる。やがて林の中に停車した車、3人はリアゲートをしげしげと眺めながら、ジミーはスコップを構えている。せ〜のでヘンリーが開けると、そこにはまだ死んでいない血だらけの男の姿があった。怒り心頭のトミーは持っていた料理包丁で心臓を滅多刺しにする。畳み掛けるようにジミーの銃弾連射で男は即死する。まったく躊躇うことのない彼らの所業はまさにプロの仕事である。運転手のヘンリーを除き、他の2人は人1人殺し、林に埋めようとする過程で、平然と眠りについている。彼ら3人はGoodfellas(同じ組織の仲間たち)に他ならない。一蓮托生の3人は物語が進むにつれて明らかになるトミーの私怨の相手をこの世から消し、鮮やかな手口で男の生きた痕跡すらも抹消する。

 1955年ブルックリン、ヘンリー・ヒルは幼い頃よりマフィアの世界に憧れ、タクシー会社やピザ屋を多角経営し、ブルックリンの街を牛耳るタディ・シセロ(フランク・ディレオ)の元で使い走りを始める。常にデカイ面して、ニューヨーク中を闊歩するこの経営者の実の兄貴がポール・“ポーリー”・シセロ(ポール・ソルビノ)だった。使い走りになった直後からキャデラックで送迎し、兄弟の命令に逆らわなかったヘンリーは徐々に頭角を表す。学校にも行かず、勉強もせずにマフィアの片棒を担ぐ息子に対し、逆上した父親は革ベルトで体罰を加える。まるでイエス・キリストの鞭打ちの刑のような父親の冷たい仕打ち。そこにヘンリーのナレーションがどこか他人事のように覆い被さる。13歳にしてストリートの稼ぎ頭となったヘンリーはこの街で一番恐れられた男に出会う。その男の正体こそがジェームズ・“ジミー”・コンウェイ(ロバート・デ・ニーロ)である。16歳で殺人を代行し、彼の手はすっかり汚れている。アイルランド系のジミーは、アイリッシュ・イタリアンであるヘンリーを他人事ではない共感の眼差しで見つめている。イタリアン・マフィアは代々、純血を守る因習があった。ジミーとヘンリーの出自は純粋なイタリア系ではなく、粗暴だが云うなれば雑種である。だがジミーとヘンリーとGoodfellasを体現する緊密なトライアングルを築くことになる一際血の気の多いトミー・デヴィート(ジョー・ペシ)は生粋のイタリア系移民の純血種である。

 16年間に渡り、企画を温め続けた前作『最後の誘惑』では、救世主と呼ばれたイエス・キリストの神性と人間性の間の葛藤を描いた。フランシス・フォード・コッポラの『ゴッドファーザー』3部作のように、スコシージは今作でイタリアン・マフィアたちの世界を描いているが、ファミリーとしての強い結び付きを神話化して描いた『ゴッドファーザー』3部作の詩情や荘厳な気品とは対照的に、ここでは『最後の誘惑』のように、神格化されるばかりだった登場人物たちの日常風景を強烈なリアリズムをもって闊達に描写する。冒頭のトミーとジミーの鼻息の荒い殺し方にも明らかなように、彼らは日々食事をするように邪魔者たちを躊躇なく殺す。スコシージはこの過激で暴力的なフィルムの中で、イタリアン・マフィアたちを日本の任侠映画のように仁義や忠義に厚い男たちとして描かず、ビッグ・ビジネスに取り憑かれた男たちの歪んだアメリカン・ドリームの行方(狂気)を共に見つめている。冒頭、蛇行気味の車のリアゲートから不気味な音が聞こえてきたことからも明らかなように、車に飛び乗った3人の末路は最初から深い闇に覆われていた。映画はヘンリー・ヒルの順調な成り上がり人生を描写していたように見えるが、麻薬が組織を破壊する頃になるラスト30分は、まるで『最後の誘惑』のように激変する。映画は冒頭の車の走行音のアヴァン・タイトルのように、1955年からおよそ30年にも及ぶヘンリー・ヒルの流転の人生を性急に伝える。そのトップ・スピードに乗ったアメリカン・ドリームの行方の性急さは苛烈を極めるショット群、矢継ぎ早に繰り返されるジュークボックスのようなrock 'n' rollに乗せて表現される。

 The CrystalsやThe Chantels、The RonettesやThe Drifters、Muddy Watersなどの50'sのオールディーズの名曲群、そこにスコシージの生涯の盟友であるThe Rolling Stonesの『Gimme Shelter』や『Monkey Man』、『Memo from Turner』の猥雑なメロディが絡み、George Harrisonの『What Is Life』やThe Whoの『Magic Bus』など60年代のブリティッシュ・サウンドが塗される奇跡のような展開。極め付けは70年台後半に勃興したPUNKSの鎮魂歌となったSid Viciousの『My Way』からクラプトンが在籍したグループDerek & The Dominosの『Layla』へ向かう怒涛の流れは、『ラスト・ワルツ』以来、ROCKの歴史を極めて冷静に俯瞰したスコシージにしか出来ないROCKへの愛に痺れる。『レイジング・ブル』以来のスコシージ×デ・ニーロ×ジョー・ペシの見事なトライアングル。『レイジング・ブル』同様に今作でも最初に愛した妻カレン・ヒル(ロレイン・ブラッコ)はユダヤ系であり、次に惚れた女ジャンス・ロッシ(イリーナ・ダグラス)は夢にまで見たイタリア系移民の純血種である。しかし彼の子孫は皮肉にも2人とも息子ではなく、娘である。ただひたすらに純血種に憧れた手の汚れまくった男の最期の生への執着。これまでのスコシージ作品同様に、夢とも現実ともつかない世界で、引き金を引くあの男の存在感こそが今作の白眉に違いない。若き日のサミュエル・L・ジャクソンやヴィンセント・ギャロ、ヘンリーの妻カレンを演じたロレイン・ブラッコはスコシージの親友ハーヴェイ・カイテルの最初の妻だった人である。実にスコシージらしい濃厚な人間関係は、この後95年の『カジノ』へと受け継がれてゆく。

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