【第703回】『ケープ・フィアー』(マーティン・スコシージ/1991)


 波のない静かな水面、獲物を狙う鷲のスロー・モーションが印象的なタイトル・バック。狭い独房の中、机の上に置かれた幾つもの哲学書や聖書たち。フレディ・フランシスのカメラはゆっくりと懸垂をする男の背中に回り込む。その背中に書かれた天秤のタトゥー、左側にはTRUTH、右側にはJUSTICEとある。マックス・ケイディ(ロバート・デ・ニーロ)はこの日、14年の刑期を終え、刑務所を出所した。分厚い哲学書や聖書などは全て残し、身一つで娑婆に出た男に迎えは誰もいない。男は刑務官たちに挨拶することも目を合わせることもなく、平然とした様子で行動を開始する。一方その頃、弁護士サム・ボーデン(ニック・ノルティ)は余暇を家族水入らずで楽しんでいた。彼には愛する妻のレイ(ジェシカ・ラング)と、多感な一人娘のダニエル(ジュリエット・ルイス)がいる。午後、仲良く映画館に出かけた核家族の優雅な暮らしの前に、思わぬ邪魔が入り込む。一つ前方の席、葉巻を吹かしながら、大声で笑い転げる男は先ほど刑務所を出所したばかりのマックス・ケイディである。フードコートでは先にお支払いを済ませ、駐車場に停めた車の中からサムたちの様子を逐一伺っている。いったい何の目的で執拗に付け狙われるのか?皆目見当もつかないサムはただただマックスの存在を訝しむ。

 弁護士の家族の平和な生活にある日突然訪れた静かな亀裂。グラフィック・デザイナーでキャリアウーマンの妻と、思春期に突入し性に目覚めた娘の住む家では、家政婦としてグラシエラを雇う。大階段のある邸宅は大豪邸で、弁護士であるサムも家族には何不自由のない裕福な生活を送る。しかしあろうことか彼は妻に内緒で、弁護士仲間のローリー(イレーナ・ダグラス)と道ならぬ不倫を重ねていた。今作のオリジナルとなったJ・リー・トンプソンの『恐怖の岬』では、グレゴリー・ペック演じる品行方正な弁護士の夫、ポリー・バーゲン演じる良妻賢母な妻、それにロリ・マーティン扮する優等生な娘がいた。そこには1960年代のある種の家族の理想の姿が見て取れた。しかし今作ではマックス・ケイディが訪れる前から、サムの家族は一見、理想の家族を演じているように見えるが実際はそうではない。法を遵守すべきはずの弁護士があろうことか妻に内緒で不貞を働いており、高校生になる娘は次々に問題を起こし、退学寸前である。両親はそんな思春期の娘の行く末を憂いながら、あろうことか自分たちも昔、マリファナを吸っていたことを告白する。人も羨む核家族の裕福な暮らしは裏を探れば相当に汚れている。マックスはそんな人も羨むような裕福な家族の暮らしを少しずつ破壊してゆく。『タクシードライバー』では階級の違いからベッツィー(シビル・シェパード)にあっさりとフラれたトラヴィスが恨みの炎を静かに滾らせたが、今作では14年間の獄中生活がマックスを静かな凶行に走らせる。

 『ダーティ・ハリー』シリーズの1本目では、「法と正義の行使の不一致」という現代アメリカの矛盾に対し、イーストウッド扮するハリー・キャラハンが死の鉄槌を下した。現代ではあらゆる法律が整備され、法治国家としてのアメリカのシステムは一見完璧のようにも見えるが、実際は脆い。自由と平等を声高に叫ぶ自称・世界一の法治国家アメリカではその法律の抜け穴をまんまと抜け、犯罪者たちは今日も自らの歪んだ欲望を行使する。読み書きも出来なかったマックスは獄中で言葉を自己流で覚え、自分を擁護しなかったマックス・ケイディ弁護士への復讐の念を滾らす。14年前、マックスは16歳の少女に暴行を働いた罪で逮捕され、法廷で裁かれた。強姦ではなく暴行に対する判決が下った。サムはマックスが起こした暴行事件の裁判で彼の弁護を担当したが、レイプ犯罪を憎むあまり、被害者にも問題があった事をもみ消す。その私怨が一転して一人娘のダニエルを恐怖へと誘う。マックスが演劇教師と称して、マリファナを吸わせ、彼女の幼い精神を巧妙に取り込む様子は、『タクシードライバー』において娼婦だったアイリス(ジョディ・フォスター)の鎖を断ち切ろうとしたトラヴィスの姿と同工異曲の様相を呈す。殺意を持った男の家族への凶行がやがて明るみに出るが、私立探偵のクロード・カーセク(ジョー・ドン・ベイカー)はおろか、地方の警部エルガート(ロバート・ミッチャム)さえ前科持ちの男に手が出せない。グレゴリー・ペックとロバート・ミッチャム、それにマーティン・バルサムの三つ巴の本末転倒ぶりも面白いが、問題はオリジナル版のロバート・ミッチャムの怖さに対し、今作の主眼はロバート・デ・ニーロの常軌を逸した怪演ぶりに尽きる。

 『タクシードライバー』ではヴェトナム帰りの不眠症を患ったPTSD患者という70年代の符号を背負ったロバート・デ・ニーロだったが、その後『レイジング・ブル』や『キング・オブ・コメディ』などスコシージとタッグを組んだ作品では、凶行に至る緻密な背景が徐々に希薄になっていく。その結果、今作におけるマックス・ケイディの人物造形は、14年間の獄中生活で全てを失った哀れな男として描かれながらも、途中から動機や理念などない完全な変人としての振り切れた演技に様変わりしてゆく。サムが家族の再生を主眼に、マックスからの逃避行を続けるのに対し、当のマックスは途中からリアリティ全無視で、まるでアメコミのような超人的な力を手にする姿はただひたすら滑稽でしかない。例の女装シーンにも腹を抱えて笑ったが、クライマックスのホラー映画のラスボスのようなマックスの姿にはすっかり脱力した。スコシージ作品の根底に流れるキリスト信仰のモチーフも今作では今ひとつ身を結んでいない。スピルバーグは当初、『シンドラーのリスト』の監督にオファーしようとスコシージに声を掛けた。しかしスコシージは『シンドラーのリスト』をスピルバーグ自身が監督すべきだと説得し、代わりにスピルバーグが着手しようとしていた『ケープ・フィアー』の監督を申し出る。この僅かな判断の差が90年代のアメリカ映画の勢力図を激変させたのは云うまでもない。

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