【第712回】『沈黙 -サイレンス-』(マーティン・スコシージ/2016)

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 静けさの中に蝉の声がジリジリ聞こえる長崎の岩場、十字架に磔にされた百姓たち、靄がかった灰色の土地には人々のうめき声がこだまし、さながら地獄絵図のような光景に見える。その地獄の光景の全てを静かに観察する通辞(浅野忠信)はさらなる拷問を加える。苦悩するクリストヴァン・フェレイラ神父(リーアム・ニーソン)のクローズ・アップには真っ先に『ギャング・オブ・ニューヨーク』のヴァロン神父を連想せずにはいられない。19世紀初頭のニューヨークと17世紀半ばの日本、場所も時代もまるで違うが、そこに共通するのは海を渡った信仰に厚い人物の苦悩に他ならない。ヴァリニャーノ院長(キーラン・ハインズ)に内々の話で集められたセバスチャン・ロドリゴ神父(アンドリュー・ガーフィールド)とフランシス・ガルペ神父(アダム・ドライヴァー)は彼の口から俄かには信じられない話を耳にする。師でもあるフェレイラ神父の突然の棄教。彼らは自分たちの目と耳でその事実を確かめようとする。船の難破により海に投げ出されたところを、ポルトガル人に助けられたマカオに住むただ一人の日本人キチジロー(窪塚洋介)にガイドを頼み、日本へ上陸しようと試みるが、キチジローは頑なに自身が切支丹ではないと突っぱねる。

 日本では1612年(慶長17年)及び翌1613年に江戸幕府が禁教令を出した。フランシスコ・ザビエルの鹿児島上陸の後、織田信長によるキリスト教の保護政策もあったが、豊臣秀吉による1587年のバテレン追放令で国内の状況は一変する。江戸幕府はキリスト教に対してはこれまでと同様の政策を取り、弾圧と呼べるような政策はとっていなかった。1602年にはドミニコ会、アウグスティノ会の宣教師達が来日して日本に本格的な布教をし始めており、1596年に秀吉の弾圧を受けたフランシスコ会も、1603年に代表ルイス・ソテロが徳川家康や秀忠と面会し、東北地方への布教を行っている。しかし、幕府の支配体制に組み込まれることを拒否したキリスト教に対して幕府は次第に態度を硬化させていく。そんな中1609年にマードレ・デ・デウス号の事件が発生する。この事件をきっかけとして幕府はキリスト教の禁止を行い始める。江戸幕府は慶長17年3月21日(1612年4月21日)に江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して教会の破壊と布教の禁止を命じた禁教令を布告する。これは幕府による最初の公式なキリスト教禁止の法令であった。今作において沢野忠庵と名乗ったクリストヴァン・フェレイラは実在する。すでにキリスト教の布教が困難を極めていた1609年(慶長14年)に日本語にすぐれ、日本のイエズス会の中心となって働いていたが、日本管区の管区長代理を務めていた1633年(寛永10年)に長崎で捕縛された。いわゆる「転び」の発端となった穴吊りの刑も史実に忠実に再現される。

 スコシージの映画において、内通者や密告者がはっきりと現れるようになったのはいつからだろうか?『グッドフェローズ』や『ギャング・オブ・ニューヨーク』、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』ではまさに内通者や密告者が権力に屈し、裏切り者となった。『アフター・アワーズ』でも名もなき路上の密告者が主人公を苦しめた。『キング・オブ・コメディ』や『タクシードライバー』ではむしろ主人公の側が欺瞞を暴く神経症的な密告者であり内通者だったはずだ。そのとどめとなったのは88年にイエス・キリストの生涯を描いた『最後の誘惑』である。聖書では「裏切り者」として広く知れ渡るユダ(ハーヴェイ・カイテル)の人物造形を、むしろイエスを鼓舞し、叱咤激励する人物として描いた異色の物語は世界中のキリスト教会から激しい弾圧に遭い、上映禁止運動にまで発展した。キリストを裏切るユダのイメージこそは88年以降のスコシージ映画の物語構造の中では幾度となく顔を出した。これは信仰と懐疑とも不可分な問題として結ばれる。確信から懐疑へ、懐疑から孤独へ、孤独から連帯へという主題はこれまでスコシージが再三用いて来たパラドックスである。今作におけるユダはと言えば、窪塚洋介演じるキチジローが真っ先に挙げられる。家族を皆殺しにされ、絵踏みを躊躇なく行える男の所業はまさに神をも恐れぬ愚行であり、彼はどこにも居場所などない。その姿はスコシージの原点となった『ミーン・ストリート』のジョニー・ボーイ(ロバート・デニーロ)のように現れては消える得体の知れない孤独な存在として描かれる。『ミーン・ストリート』冒頭の「教会では罪は贖えない、それ以外はまやかしだ」という言葉をまさに体現するような登場人物たちの苦悩が続く中、モキチを演じた塚本晋也の熱演ぶりが不意に涙を誘う。

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