【第722回】『ニシノユキヒコの恋と冒険』(井口奈己/2014)


 井口奈己の映画は冒頭10分間があまりにも濃密で一時も目が離せない。デビュー作となった『犬猫』では西島秀俊扮する古田が彼女をヨーコ(榎本加奈子)からスズ(藤田陽子)に乗り換えるが、冒頭既に古田とスズの生活は破綻し、ヨーコとスズの2人だけの生活が新しく始まる。続く『人のセックスを笑うな』では良好な関係を続けていたみるめ(松山ケンイチ)、えんちゃん(蒼井優)、堂本(忍成修吾)のあまりにも平和な三角関係が非常勤講師ユリ(永作博美)の登場で一気に綻びを見せる。井口作品では往々にしてあっさりと人間関係が破綻し、そこから新たな人間関係が形成される。今作でも最初の10分のあまりにも唐突な展開が観る者を戸惑わせる。ニシノユキヒコ(竹野内豊)のエスコートで水辺のレストランの席に着いた人妻の夏美(麻生久美子)とその娘であるみなみという5歳の娘。3人は談笑をしながら、ニシノがみなみにプレゼントを渡して別れる。地元の市場を見て回るニシノに少し距離を置いた後ろから松葉杖の女(藤田陽子)が声をかけるがその場でバランスを崩して倒れたことから、急いで彼女を助けようとしたニシノは道路に飛び出しトラックに横から衝突され死んでしまう。ここまで開巻5分強、主人公で映画のタイトルにもなっているニシノユキヒコという男は随分あっさりと何の抵抗もなく死んでしまうのである。そこには涙もなければ、悲しい死の面影もない。

 その後幽霊となり、中学生になったみなみ(中村ゆりか)の元に化けて出るが、ここでのニシノの様子は実にコミカルな風情をたたえる。脚も体も顔もはっきりとした幽霊のニシノは扉をすり抜け、一瞬で場所を移動するし、みなみの父親にはその姿が見えない。彼は自分の葬式にみなみを招待するために彼女の家を訪れる。葬式場はニシノのお城のような豪邸で催され、案の定、井口監督が大好きな坂がそこにはある。前日の晩飯を抜いたみなみは体に力が入らず、楽団の演奏中に倒れるところをササキサユリ(阿川佐和子)に介抱される。日陰のベンチに腰を下ろしたユリは唐突にみなみに対してニシノの思い出を語り始める。今作は物語中ほぼ8割方、ユリによるニシノの回想エピソードという奇抜な物語構成である。ルックス、仕事、セックス……全てが完璧で、女には一も二もなく優しく、恋愛に関しても悟ることを知らないニシノのこれ以上ないモテ男ぶり。同じ料理教室に通うユリとは横浜の名画座「ジャック&ベティ」で偶然知り合い、彼の女性遍歴が次々と赤裸々に語られていく。思えば前作『人のセックスを笑うな』においても、映画館が重要な役割を担った。最初の出会いは3歳年上の会社の上司マナミ(尾野真千子)で、ニシノがかつての恋人カノコ(本田翼)と二股に近い関係を持っていると知りながらも彼に徐々に惹かれていく。

 思えば今作の主人公であるニシノユキヒコの女性を鮮やかにあしらう姿はどこか前作『人のセックスを笑うな』の永作博美を彷彿とさせる。ニシノは『人のセックスを笑うな』の永作同様に自由奔放でいったい何を考えているのかわからない人物として描かれる。これは『犬猫』や『人のセックスを笑うな』の男性陣がなよっとして頼りなかったのとは実に対照的で面白い(ただ肝心要の命は彼方へ消えているのだが・・・)。むしろ今作では女性たちがニシノのオム・ファタールとしての不思議な魅力に翻弄される。女性たちはみんな受け身で、ニシノの行動に自分たちの感情を合わせようとするのである。井口監督は『犬猫』でも『人のセックスを笑うな』でも、女性同士の感情のぶつかり合いはあまり描かなかった。『犬猫』においてかつての恋人である古田のことでヨーコとスズが喧嘩になる場面は無かったし、三鷹(忍成修吾)と2人の関係性においてもどちらかが積極的にアプローチする場面では感情をあまり表には出さず、ケンカになる前にもう片方が家を離れる穏便な解決法だった。『人のセックスを笑うな』では、蒼井優は年上である永作博美に対しいつも気が引けている。蒼井優の唯一の抵抗はせいぜい展覧会でお菓子をいっぱい食べることくらいだった。それが今作では女同士のバチバチとした戦いの場面が二度露わになる。一度目はマナミとカノコがニシノの家のテーブルで小突き合いをする場面、もう一つは昴(成海璃子)とタマ(木村文乃)の隣家のカップルの関係性にニシノが割って入り、女同士の決定的な亀裂を生む場面である。人の死を悼むべき局面において、彼女たちの心情は遠くに投げ出され、そこにあるのはかつてのニシノとの良かった頃の思い出だけというのが、女性らしい妙にリアルで生々しい秘密めいた情念を燻らせる。

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