【第740回】『インヒアレント・ヴァイス』(ポール・トーマス・アンダーソン/2014)


 ソルティレージュ(ジョアンナ・ニューサム)のナレーション、1970年カリフォルニア州ゴルディータ・ビーチ、オレンジ色の陽光が徐々に黒に染まる時刻、ラリー・“ドック”・スポーテッロ(ホアキン・フェニックス)はマリファナでハイになり、ソファーでうたた寝をしていた。そこへシャスタ・フェイ・ヘップワース(キャサリン・ウォーターストン)が突然現れる。それもホットパンツにサイケデリックなTシャツといういつもの風貌ではなく、何故か正装した彼女は長かった髪を10数cm切り、彼の寝顔を眺めながら微笑む。ドックはマリファナでラリった頭を抱えながら「幻覚なのか?」と彼女に問いただすが、女は一言「助けて欲しいのよ」と答える。数年前、共にマリファナを愛用するドックとシャスタはカリフォルニアの開放的な空の下で、蜜月関係にあった。だが突如、ドックの元を去る。愛する人が忘れられず、失意のどん底に落ちたドックはゴルディータ・ビーチの2Fに探偵事務所を構え、地方検事ペニー・キンボル(リース・ウィザースプーン)と新たな恋人関係にあった。シャスタはドックの元を去ってから、既婚者のミッキー・ウルフマン(エリック・ロバーツ)の愛人として暮らしていた。だがそのミッキーの命は危機に晒され、寄る辺もないシャスタは元恋人で私立探偵のドックに助けを求める。2人で缶ビールを吞み干し、車が停めてある所まで手を繋ぎながら急な坂道を降りる2人、やがてシャスタは強い余韻を残してカリフォルニアの闇へと消えて行く。その姿を呆然とした表情で見つめるドックの姿。CANの『Vitamin C』が大音量で流れ、緑色のネオン管で書かれたInherent Viceの文字が現れるいつも以上に痺れるような素晴らしい導入場面である。

 ファム・ファタールのような元カノの誘いに乗り、主人公がやがて巨大な陰謀の渦に呑み込まれて行く展開はまさに正調フィルム・ノワールそのものと言っていい。不動産王で大富豪ミッキー・ウルフマンの情婦に落ちぶれたシャスタはドックに、カレの妻とその恋人の悪だくみを暴いてほしいと依頼する。だが、捜査に踏み出したドックはチャンネル・ビュー地区の風光明媚な場所にある「チック・プラネット・マッサージ」で頭を鈍器で殴られあっさりと気絶し、殺人の濡れ衣を着せられてしまう。同時に大富豪もシャスタも失踪し、ドックは巨額が動く土地開発に絡む、国際麻薬組織のきな臭い陰謀に引き寄せられていく。彼の運命を握るのはカリフォルニア市警察のクリスチャン・F・“ビッグフット”・ビョルンセン(ジョシュ・ブローリン)に他ならない。私立探偵と刑事として長年因縁のあるビッグフットは、最初から濡れ衣を背負わされたドックの犯罪ではないと察している。数年前、ビッグフットの相棒は鉤十字の刺青を入れた何者かの凶弾により、命を奪われた。当初は得体の知れない悪により、警察に差し出されたドックはマリファナやコカインでヘロヘロになりながら、偶然の因果により深い霧の奥へと分け入るのだ。映画はこれまでのPTAのフィルモグラフィのような張り詰めた人間関係は無く、全ては偶然の弾みでクライマックスへとただただ転がり続ける。その脈絡なき物語の脱線に注ぐ脱線はPTAの新境地となる。ドックが見るのは幻視者の夢なのか?それともドラッグでラリった男の妄想のような現実なのか?ビッグフットを筆頭に、ソンチョ・スマイラックス弁護士(ベニチオ・デル・トロ)やルーディ・ブラットノイド医師(マーティン・ショート)の怪演ぶりが物語に華を添える。

 ではこれまでのPTA作品に通底するカリスマ的熟練者の失墜のモチーフはどこにあるのか?ドックにとって相棒となるビッグフットやソンチョのような人物は代わる代わる出てくるものの、彼を正しい方向へ導くメンターは一切登場しない。だがかつて愛したシャスタとその不倫相手であるミックの失踪事件の闇に迫ろうとしたドックは、そこでミック失踪事件に関連付けられた2つの主題を抱え込む。一つはホープ・ハーリンゲン(ジェナ・マローン)の殺された夫であるコーイ・ハーリンゲン(オーウェン・ウィルソン)の生の抹消からの救出作戦であり、もう一つは腐れ縁であるビッグフットの代理殺人(復讐)に他ならない。結論から申し上げれば、彼はシャスタから請け負い、フィルム・ノワールの本線とされたはずのミステリーの靄には一切手をつけられていない。云うなればミッキー・ウルフマンの存在は最初から「マクガフィン」として連想される。マリファナの白い煙に包まれた男の視界はただただ白く煙り、感覚的に捕まえ切れた2つの因果は偶然にも解決出来たにせよ、肝心要の物語は薄皮1枚のモヤで隠されたまま最後までヴェールを脱ぐことはない。トマス・ピンチョンの小説『LAヴァイス』を原作にした物語は、アメリカを影で動かす巨悪の暗喩にPTA作品に通底するカリスマ的熟練者を用いる。黄金の牙とされるプリザーヴド号はそのシンボルとも言える。薄皮1枚で隠された恥部は、名もなき私立探偵にもカリフォルニア州警察にもFBIにもまったくどうすることも出来ないまま、クリスキロドン研究所で赤狩りの犠牲となったジョン・ガーフィールドのフィルムを一瞬だけ大写しにしながら、事件の真相をただただ誤魔化す。PTAは当時のカリフォルニアの自由な空気が、チャールズ・マンソン事件やオルタモントの悲劇などで「ラヴ&ピース」のヒッピー・ムーヴメントが死に絶え、ニクソン大統領の反体制狩りが跋扈する前夜を描写する。マリファナでラリったドックの描写は、カリフォルニアが永遠に失ってしまったあの頃の猥雑さを観客に追体験させる。

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