【第744回】『セッション』(デイミアン・チャゼル /2014)


 放課後のシェイファー音楽院、廊下の一番奥の部屋に置かれたドラム・セット。19歳のアンドリュー・ニーマン(マイルズ・テラー)は、今日も1人残って黙々と自主練を続けていた。やがてカメラはゆっくりと前進し、ニーマンの鬼気迫る練習に聞き入る。白いシャツ姿で汗をかきながらスティックを持つ彼の眼前に1人の男が現れる。フレッチャー教授(J・K・シモンズ)は彼に2,3質問をした後、ルーディメンツ、スウィング、倍テンのリズムをニーマンに強要する。男は初めてのチャンスに無我夢中になるが、僅か数秒で無情にも練習室のドアは閉まる。やがてドアが開き、フレッチャーは戻って来るが上着を忘れたためだった。失意のどん底に落ちたニーマンは父親と合流し、映画を観る。その映画のタイトルが『男の争い』というのは何とも意味深である。ニーマンは映画館のポップコーン売りの少女ニコル(メリッサ・ブノワ)に恋をしている。Lサイズのポップコーンを持ちながらニーマンは父の隣に座る。母親が出て行き、高校教師を務める作家でもある父親との週末だけの家族の風景。ニーマンは偉大なジャズ・ドラマーになるという野心を抱いて、何とかフレッチャー教授の指揮する“スタジオ・バンド”に所属することを夢見ていた。

 まるで神の啓示のようなメンターとの最初の出会いからほどなくして、ニーマンは夢にまで見たフレッチャーから直々に指名を受ける。約束された午前6時きっかりに席に着くが、他のメンバーは一向に現場に来る気配がない。それもそのはず、フレッチャーは9時の約束から3時間も早い6時とニーマンを3時間も騙していたのだ。定刻5分前に次々に現れたエリート大学生たちは、プライベートな馬鹿話から素晴らしい集中力で演奏モードに切り替わる。時計が9時の針を示すのと同時にフレッチャーが611教室に入ると、現場の空気は一瞬で凍りつく。激情家で鬼軍曹のようなフレッチャーの指導ぶりはストイックで残酷で容赦ない。プレイヤー(演奏家)たちの尊厳を一瞬で踏み躙るような彼の言動は2000年代の社会の空気では明らかにパワハラでアウトなのだが、それでもエリートたちは何とかフレッチャーに食らいつこうとする。しかし現代においてシェイファー音楽院のような学校に入学する若者というのは、相変わらずほとんどが裕福な白人なのだろうか?実際、ドラマー以外には何人か黒人のプレイヤーたちも紛れてはいるものの、どういうわけかアンドリュー・ニーマンを筆頭に、その鞘当てにされた気の毒なライアン(オースティン・ストウェル)もタナー(ネイト・ラング)もJAZZの歴史には門外漢な白人ということが、何とも象徴的に思えてならない。

 ショーン・ケーシーの名前が出る最初のシークエンスでは、うっかりスクリーンの前で涙が滲みかけたが、それはあくまで鬼教官の仮の姿であって真実ではない。狂気の師弟関係はニコルとの普通の付き合いすらも否定し、「僕は偉大になりたいんだ」と彼女の前で呟くニーマンの姿は明らかに狂気じみており、その後表出するエゴは観るに耐えないものだが、監督であるデイミアン・チャゼルはどういうわけか偽りの父子関係で生じた生々しいエゴすらも、100%自己肯定し意に介さない。賛否両論巻き起こった今作の心象の違いは、この倫理観の数cmの僅かな誤差にある(フレッチャーのパワハラを許容出来ないという意見も大いにあり得るが)。メンバーの中で最年少にして、フレッチャーに直々に指名されたニーマンの優越感は幾度ものコミュニケーション不全を引き起こしながら、やがて大きな事故を巻き起こすが、実際に死んだのはショーン・ケーシーという男であってニーマンではない。「次のチャーリー・パーカーは何があろうと挫折しない」というフレッチャーの言葉は、珍しくペテン師のワードの中では真実たり得る言葉となる。ニーマンは現代人の多くが母親の子宮の中のような安全圏を欲する中、あえて狂気の世界へ自らのめり込んでいく。ここでは現実の父親のやや過保護気味な抱擁を否定するように、ハゲ面に青筋を立てたフレッチャーとの狂気とのアイコンタクトだけが彼の狂気に行き着く先を与える。ラストの『Caravan』の狂気のドラム・ソロは、間違いなく2000年代アメリカ映画の屈指の名場面に違いない。

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