【第758回】『ミリオンダラー・ホテル』(ヴィム・ヴェンダース/2000)


 ロサンゼルス・ダウンタウンの高層ビル街、IBMビルなど巨万の富を築くビル群が空撮される中、やがて小さなホテルのネオン管が映し出される。「The Million Dollar Hotel」という名の看板が消え、鉄骨がむき出しになった屋上では、ちょっとオツムの弱いトムトム(ジェレミー・デイヴィス)が後ろを振り返りながら、屋上の端へと向かう。U2の『The First Time』が流れる中、朝陽に包まれた眩しい光の中、男は数十m先の空へと走り寄る。トムトムの助走のスロー・モーション、ロング・ショットの美しさ。彼は飛び降りる寸前、右側の誰かの方を振り返りながら、右手でサヨナラのポーズをし、ビルから飛び降りる。2週間前、トムトムは親友イジーがホテルの屋上から転落死したことに衝撃を受けていた。失意のどん底にあった彼の前に運命の人エロイーズ・アッシュ(ミラ・ジョヴォヴィッチ)が現れる。ストライプのシャツを着て、なぜか素足の女は知的障害者であるトムトムに怯えている。ミリオン・ダラー・ホテルのロビーでは、従業員でもないのにトムトムが客の世話係をしていた。その日も彼は客の雑用を見事にこなしていたが、FBI捜査官スキナー(メル・ギブソン)が突然現れる。黒の革靴とスーツで決め、どういうわけか首にコルセットを巻くスキナー捜査官はトムトムにイジーが住んでいた部屋へと案内させる。イジーが実はメディア王の御曹司だったことで、その父親に「ユダヤ人にとって自殺は恥だ」と知らされたスキナー捜査官は独自の調査を開始する。

 まるで精神病院のような雑然としたホテル内、奇人変人たちの共演はまさにアメリカ社会から阻害されたマイノリティにの声なき声に他ならない。ヒロインのエロイーズ・アッシュは男に集団で暴行されかけたことで男性不信に陥っており、精神病院である聖ティモシー病院への入退院を繰り返していた。トムトムは軽度の知的障害と診断されている。その他にもヘロインやコカインなどのドラッグ中毒、カツラを被ったアルコール中毒者、イジーの婚約者だったジャンキーのヴィヴィアン(アマンダ・プラマー)、イジーと同室で暮らすジェロニモ(ジミー・スミッツ)など曰くありげな奇人たちが生活を繰り広げていた。その中で特に印象深いのは、戦前のユニバーサル映画で主役級の活躍を見せたジェシカ(グロリア・スチュアート)と、自分自身をジョン・レノンだと思い込むディクシー(ピーター・ストーメア)の可笑しな妄執である。LA市警のベスト(ドナル・ローグ)を伴い、ホテルにやって来たスキナー捜査官はマスコミに箝口令を敷き、ホテルの客全員が重要参考人だと宣言する。この時点では典型的なフィルム・ノワールの定型をなぞるかに見えたが、彼の捜査は一向に進展しない。あたかも『ツイン・ピークス』のデイル・クーパーやゴードン・コール主任捜査官のようなメル・ギブソンの怪演ぶりが素晴らしい。登場シーンでのコルセットもインパクト十分だが、中盤の盗聴場面では彼の背中に千切れた羽のような突起物が見える。

 ヴィム・ヴェンダースと旧知の仲のU2のボノが原案として参加した今作は、ボノらしいイノセントでピュアな人間たちへの温かい眼差しに溢れている。便宜上は殺人事件を捜査するノワール・サスペンスを下敷きにしながらも、グランド・ホテル形式の見事な群像劇であり、何よりもトムトムが運命の人エロイーズに恋をするボーイ・ミーツ・ガールなラブ・ロマンスのレイヤーを高度に複合的に散りばめる。本が大好きで、煙草が欠かせないエロイーズの痛々しいピュアな性根も素晴らしいが、何より今作は知的障害の若者を演じたジェレミー・デイビスのむき出しのイノセントが欠かせない。69年生まれで当時30歳を超えていたジェレミー・デイビスが10代の少年のような瑞々しい感性でエロイーズに迫る純真無垢な若者を演じている。彼らが916号室のベッドの上で互いに向かい合う様子は、テレンス・マリックの『地獄の逃避行』のホリーとキット、あるいはTito Larriva and the MDH Bandの演奏でカヴァーだが、『Anarchy in the U.S.A. 』の原典となるSex Pistolsのシド&ナンシーを彷彿とさせる。未来が見出せなくなった不器用でピュアなカップルは、義父のような存在のスキナー捜査官に匿われながら、ここではないどこかへと脱出を試みるのだが、誰よりもイノセントでピュアな少年の自我が全てに終止符を打つ。冒頭のスロー・モーションのロング・ショットの意義はここに集約され、純粋さを保つことの痛みが深く胸を打つ。今回のHDマスターで映画公開時ぶりに確認したがやはり素晴らしい。90年代以降の低迷期に入ったヴェンダース作品の中では見事な偏愛映画に仕上がっている。

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