【第761回】『すれ違いのダイアリーズ』(ニティワット・タラトーン/2014)


 バーン・ゲーン・ウィッターヤ小学校、足を交差させ、長い足が地面につかないように鉄棒にぶら下がる大の大人であるソーン(スクリット・ウィセートケーオ)は、校長先生に怒られるという最悪の出会い方をする。面接でアマチュア・レスリングをしていたことを自慢気に語り体育教師になりたいと言うが、既に体育教師の空きがないことを知ると、図工の教師でも何ならコピー係でも良いと猛烈にアピールする。そこに1年前の同じ空間での様子がクロス・カッティングされる。エーン(チャーマーン・ブンヤサック)は右腕に書かれた星の刺青を校長に教育上問題だから消すよう言われるが、その申し出を拒否する。かくして1年前と1年後の2人は共に僻地へと飛ばされる。一方は送迎車で、もう一方はバスでメーピン・ダムまで向かう2人のクロス・カッティングの使用がなかなか面白い。陸地の端まで移動して来た2人はやがてモーター・ボートでそこから数km先にある学校へと向かう。バーン・ゲーン・ウィッターヤ小学校水上分校、水に浮かぶ木製の不思議な建物、海の向こう側に見える霧に包まれた山々、やがて小さな教室に入った男はこれから始まる教師としての生活に思いを馳せる。チョークを取ろうと黒板の上を弄ると、そこには1冊の日記帳が置いてあった。

 一見して、スマフォもインターネットも完備された現代では極めて珍しい物語である。タイも陸地の通信インフラはほぼ完璧に整備されているが、湖面には電波網が届かない。陸の突端から数kmも離れた湖の村は言うなれば漁師村であり、教師が居れば勉学に励ませようとする両親もわざわざ数時間かけて町の学校に通わせようとは思わない。そんな分校に1人の新任教師がやって来るが、彼が分校に赴任したことを伝達するのも難儀な土地に生徒たちは住んでいる。好奇心から分校の門を叩いたソーンは孤独に耐えかね、憂さを晴らそうとボートに乗ったことで利き腕を骨折してしまう。そんな矢先に生徒たちは嬉しそうな表情を浮かべながら分校にやって来る。「エーン先生は?」と言う言葉と生徒たちの目の輝きが、前任だったエーン先生の人となりを伝えるが、僻地での教育は新米教師には時に困難が伴う。トイレの下の溺死体、突如教室に現れた毒ヘビやクモ、湖に入ったエーンは水中でぶよに噛まれ、白い肌は赤く腫れ上がる。チェンマイで生活していた2人にとって、これ程過酷な環境は早々ない。湖畔の村で生まれ育った子供たちは彼らを笑うが、タイでも都市と地方との格差はあまりにも大きい。物語そのものはまるでホウ・シャオシェンの『ステキな彼女』や『風が踊る』、『川の流れに草は青々』あたりの初期作や、軍国主義華やかなりし時代を描いた木下惠介の『二十四の瞳』を彷彿とさせる。

 湖で無邪気に遊ぶ子供たちの姿は、急速に目覚しい経済発展を遂げるタイ社会のノスタルジーを明らかにする。テスト期間になるとお通夜のように暗くなり、教室でテストの点数に一喜一憂する姿は都市部の学校に通う子供たちと何ら変わらないが、エーンは将来弁護士や裁判官になりたいという志を持たず、漁師でいいやという生徒たちの姿に愕然とする。しかし僻地では子供たちが出会う大人は父親とお爺ちゃんである。彼らが漁師で生計を立てている以上、子供たちも当然のごとく漁師になろうとする。それが教育の現実であり、グローバル化の恩恵をほとんど受けない僻地の村の残酷な真実に違いない。グローバル化の進むチェンマイとは違い、漁師になろうとしている人間が読み書きなんて習おうが意味はなく、ただ単に漁師行の繁忙期の男手の1人としか換算されない。エーンはそんな村の現実に嫌気が差して一度は町の学校の先生に戻るが、教育者としての理想と現実の壁に直面する。個人的には1教師としてのソーンとエーンが僻地教育に情熱を燃やす姿が最後まで観たかったのだが、それでは心地良いメロドラマは一向に進展しない。互いの日記に書かれたタイ語の言葉に、孤独な2人が心を通わす場面が素晴らしい。2人は身長の記された柱に会えないパートナーへの思いを浮かべ、すれ違いの儚さ切なさに心が動かされる。「スクール・オブ・ブローケン・ハート」な思いに駆られた2人のクロス・カッティングの素晴らしさは、近年の恋愛映画においても出色の出来を誇る隠れた名作である。

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