【第781回】『ムーンライト』(バリー・ジェンキンス/2016)

あらすじ・結末に触れていますので、これから見る方はクリックしないで下さい

 今作の導入部分、悪友たちに散々石を投げつけられた男の子は民家の中に逃げ込む。マイアミにある薄汚いアパート、階段には注射器が転がっている。マイアミの美しい陽光も差し込まないほどの真っ暗闇の中に閉じこもるシャロン(アレックス・ヒバート)はこの世に生まれて来る時を間違い、母親の子宮の中(安全圏)に逃げ込もうとする。しかし次の瞬間、強いノックの音で現実に呼び戻される。壁をへし破りシャロンの前に姿を現した男フアン(マハーシャラ・アリ)は暗闇の中に発見した黒人の子供の姿を見て喜びを隠さない。何かにひたすら怯え、言葉も発しないシャロンの不安を再び光の差す方へ強引に導き、彼は何も喋らない子供を馴染みのダイナーに誘う。皿の上に置かれた肉と卵焼き、自分は飲み物すら注文せずにシャロンの顔を覗き込むフアンが善人と悪人の間を行き来する人物であることに好感を持った。生まれて来たことを悔いる少年は、1秒後にはガン・ショットで命を奪われる危険性もあるとにかく「危険」な男に出会い、魂を救済される。マイアミの海ののどかな波は羊水のメタファーであり、フアンは「どう生きるかを決めるのは自分自身」なんだと言いながら、シャロンに二度目の生を付与する。リバティ・シティに暮らすシャロンの母親ポーラ(ナオミ・ハリス)はとうの昔にシャロンの父親と別れているが、稼ぎ方を知らないポーラは売春婦として荒んだ生活を送る。シャロンは一貫して父性の不在を抱えている。

 フロリダ州の陽気な空と内省的な主人公の対比、半径150cmの小さな世界に起こる暴動のような数々の出来事を純粋無垢な眼差しで見つめるシャロンの瞳の奥の表情が残酷ながらも胸を打つ。この世界への絶望、怯え、失望、そして希望の感情が少年の心を何度も奮い立たせようとするが、その度に周りのノイズに踏み潰される。だからこそ2部の海辺の場面は筆舌に尽くしがたい美しさと崇高さを同時に併せ持つ。マイアミの海は主人公の苦痛を洗い流す救済の場であり、今度こそ未来に光が差したと思った矢先に心底絶望的な事件は起こる。不勉強ながらナオミ・ハリス以外の俳優はまったく知らない人選だったが、白人主体の映画が特色であるロングやミディアム・ショットを捨て、TVドラマのようにただひたすらクローズ・アップの切り返しに陥る凡庸さとは対照的に、黒人たちの褐色に光る肌と表情はクローズ・アップ中心でしか据えられない黒人たちの美をスクリーンに輝かす。彼らの密度の濃い演技に何度も引き込まれる。リトル、シャロン、ブラックと同一人物だが呼称の違う3つのレイヤーを演じた主人公は、各々のレイヤーで矛盾し苦悩するメンター(救済者)たちとその度に魂が現れるようなやりとりをする。第1章から第3章までの全ての物語において、監督であるバリー・ジェンキンスはフカフカなベッドの上で横になる主人公の姿を執拗に何度も映し出す。少年時代のシャロンがフアンにより夢に導かれたように、今度はかけがえのない親友以上の存在だったケヴィン(アンドレ・ホランド)の突然の電話が彼の魂を救済する。その瞬間、味気ないキューバ料理屋は月明かりに照らされた海辺のように突然輝き出す。

 クライマックス前にジュークボックスから流れて来たBarbara Lewisの『Hello Stranger』の旋律にしばし涙腺が緩む。鋼の鎧のような筋肉で武装し、キングの冠を車に掲げる主人公の姿は、まさに彼の代父となったフアンと同じく肩肘を張ることでしかストリートの流儀では生きていけない。たかだかレゲエ野郎を殴ったくらいで、麻薬王と同じ牢獄に入れられるはずはないなどと言った脚本上の不自然さはこの際ほとんど問題ではない。今作でシャロンが悪に染まる瞬間はほとんど例外的にあの場面だけであり、それ以外の場面では苦悩するシャロンを救済しようとする第三者の見えない力にフォーカスする。今作の途中まで白人が一切出て来ないことに不自然な政治的思惑を感じ取ったものの、クライマックスに白人の姿が出て来てほっと胸を撫で下ろした。明らかにウォン・カーウァイの『ブエノスアイレス』へオマージュを捧げた物語は、上下のゴールドのグリルを外し、料理を平らげることで幼き日の心の浄化を反復するような主人公の姿に心打たれる。Charli XCXの『Classic Man』やスクリューが爆音で流れるが、その後のクライマックスの静寂は息を呑む。我々観客は主人公の内省的な苦悩の姿にシンクロし、シャロンの苦悩をまるで自分に起きた出来事のように抱え込む。奇抜さを排したバリー・ジェンキンスの丁寧な演出に心底見惚れる。性別・時代の違いはあれど、その手触りに昨年のトッド・ヘインズの『CAROL』のような深い感銘を受けた。マイノリティを見つめる眼差しの優しさに思わず涙腺が緩むような力強い名作である。
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