【第785回】『ヤング・アダルト・ニューヨーク』( ノア・バームバック/2014)


 ニューヨーク・ブルックリンにあるアパート、ベッドで眠る赤ん坊の顔を見つめるコーネリア(ナオミ・ワッツ)は「3匹の子豚」の物語を赤ん坊に話して聞かせるが、すぐに泣き出し、夫ジョシュ(ベン・スティラー)と顔を合わせながら困惑気味の表情を浮かべる。彼らの子供だと思われていた赤ん坊は、コーネリアの親友マリーナの子供であり、40代半ばになった夫婦には子供がいない。処女作でそれなりの成功を収め、ドキュメンタリー映画監督を自認するジョシュは一転してスランプに陥り、もう10年間新作を発表していない。妻コーネリアの父ブライトバート(チャールズ・グローディン)は高名な映画監督であるが、不器用で意気地なしなジョシュは義父に支援を仰ぐことも出来ず、父親の作品のプロデューサーを務めるコーネリアの稼ぎに依存している。妻コーネリアとは子作りに励んだものの、35歳から2度流産し、不本意ながら2人きりのNY生活を満喫しているかに見えたが、どこか心は満たされない。非常勤講師として働くアートスクールで彼が教えるのは、ロバート・J・フラハティの『極北の怪異』のような純然たるドキュメンタリー映画に他ならない。人もまばらな教室内、パワーポイントの調子がおかしいと言い訳をするジョシュに対し、聴講生である監督志望のジェイミー(アダム・ドライバー)とその妻ダービー(アマンダ・サイフリッド)に声をかけられる。

 日本では孔子が言った「四十にして惑わず」という諺が有名だが、一見何の不自由もないジョシュとコーネリアのNY生活は常に満たされない何かを抱えている。順風満帆に見えた夫婦生活は暗礁に乗り上げ、プロデューサーと監督という遠からぬ関係性の2人は大切な何かを切り出せない。40代の微妙な夫婦は20代の夫婦のフットワークの軽さに触発され、自分たちの足元を見つめ直す。ジェイミー(アダム・ドライバー)の作品を見てほしいと招待され彼らの家に赴くと、スマフォ依存でデジタル・データに毒されているジョシュに対し、ゆとり世代はデジタル化の流れに反発するかのように、LPレコードやVHSテープ、レトロな雑貨、手作りの家具など20世紀のアナログ的マテリアルを愛でる。ジョシュが老け込むタイミングに出会ったジェイミーに触発され、突然帽子のオシャレに目覚め、お揃いの自転車を買う様子は幾分滑稽に映るが、ジョシュはジェイミーに出会ったことで再び若い頃の活気を取り戻す。子供がいない夫婦には親友のマリーナ夫婦との距離がだんだんと遠くなり、逆にフットワークの軽い若いジェイミー夫婦に徐々に惹かれていくのだが、そこにはとんでもない結末が待ち構える。『フランシス・ハ』以降、積極的に自らのフォロワーである「マンブルコア」人脈の作風を取り入れながら、親友であり戦友とも言えるウェス・アンダーソンとは一味違う独自の作風を突き詰めるノア・バームバックの作風は、「マンブルコア」派への嫉妬の念を隠そうとしない。

 上位世代である成功中の大作家であるコーネリアの父親と、若き新進気鋭の20代に挟まれたアラフィフ作家の悲哀はノア・バームバック自身の皮肉な諦念とも無縁ではない。『イカとクジラ』から一貫してニューヨークを舞台とし、瑞々しいブルックリンの風景を切り取ってきたノア・バームバックだが、今作では舞台となるニューヨークの背景描写が希薄となり、専らベン・スティラーやナオミ・ワッツの感情描写に多くの時間が割かれる。確固たるフィアンセの揺るがない存在感を保ちながらも、登場人物たちが友達の恋人を追い求める脚本は「マンブルコア」人脈のエース格であるジョー・スワンバーグの作風を思わず彷彿とさせる。ベン・スティラーやナオミ・ワッツの演技は流石に素人俳優たちとは別次元の輝きを見せるが、肝心要の脚本や台詞回しが所詮はインテリ層の表現の域を出ないのが勿体無い。「マンブルコア」人脈にしては幾分贅沢な前半と後半の異なるレイヤーを持つ物語は、しかし1億円の制作費がかえって自由な創作を阻害し、凡庸な結末に帰結しているのは否めない。あえて老いに抗わなかったベン・スティラーやナオミ・ワッツのすっかり年老いた姿には同情と共感を禁じ得なかったものの、アンサンブルとしてのノア・バームバックの演出は思いの外弾んでいない。邦題だけの『ヤング・アダルト・ニューヨーク』というタイトルも今作のフィルムの質感を正確に据えているとは言い難い。Paul McCartneyの『LET EM IN』のセンスの良い挿入だけがバームバックらしい情緒や余韻を残す。

該当の記事は見つかりませんでした。