【第790回】『LION/ライオン 〜25年目のただいま〜』(ガース・デイヴィス/2016)

あらすじ・結末に触れていますので、これから観る方はクリックしないで下さい

 緑生い茂る森が出て来たかと思えば、土に覆われたデコボコの山肌に一瞬で切り替わるスライド・ショーのような冒頭部分。オーストラリア、インドの風景を俯瞰で据えたグリーグ・フレイザーの秀逸なロング・ショットがタイトル・バックで伝えるのは、主人公の壮絶な人生の道程に他ならない。迷った距離1万キロ、探した時間は25年にも及ぶ。物語の出発点となるのは1987年インド中部、マディヤプラデーシュ州南西部の都市カンドワ。5歳になったサルー(サニー・パワール)は黄金色に輝く蝶々の群れに目を輝かせる。彼の子守を務めるのは少し年の離れた頼もしい兄グドゥ(アビシェーク・バラト)であり、2人は走る列車の屋根から石炭を盗むという違法スレスレの大胆な行為に打って出る。そうして盗み出した石炭を牛乳に変え、兄弟は母親の年少の妹に渡す。母親は目を輝かせながら、乳飲み子のために牛乳を受け取る。貧しい田舎の家族にはどういうわけか父親がいない。兄グドゥは成人にも満たないあどけない表情を見せながら、この家の大黒柱として振る舞う。そんな兄の姿に触発され、サルーも5歳ながら子供ではないことを主張する。深夜の肉体労働に向かう直前、家を守るはずの5歳時は母親を喜ばせようと、兄の背中を追って夜の街に消える。弟を思ってのグドゥの一瞬の判断ミスが2人のその後の人生を大きく揺るがすことになるとは、2人はまだ知る由もない。

 5歳の少年の孤独な彷徨は、アッバス・キアロスタミの傑作短編『トラベラー』を彷彿とさせる。眠りについた瞬間、少年の無邪気な希望は残酷な日常に欺かれ、神は手を差し伸べてくれない。1974年に作られ、イラン映画の夜明けとされたアッバス・キアロスタミの『トラベラー』そのものが、1959年にフランスで撮影されたフランソワ・トリュフォーのヌーヴェルヴァーグ古典『大人は判ってくれない』へのあからさまなオマージュだったことを考えると、子供の目線から据えられた現実の物語はいつの時代も、かくも残酷で容赦ないものなのか思い知る。前半の実に秀逸な社会派ドキュメンタリーのような展開は、今日の映画で言えばダルデンヌ兄弟やケン・ローチの映画に非常に肌触りが近い。小さな町ガネッシュ・タライをガネストレイだとミスリードした主人公の運命は最初から路頭に迷っている。西海岸のムンバイ寄りのカンドワから近くのブルハンブールを経由し、バングラディシュとの国境沿いにあるインド最大の都市コルカタ(昔のカルカッタ)までの距離を数日かけて旅した主人公の兄や母を呼ぶ声は無情にも届かない。そもそもコルカタではヒンディー語と英語が公用語だが、20世紀のインドでは州ごとに異なる公用語があった。サルーはヒンディー語を話すことも出来なければ、聴くことも出来ない。心底絶望的な状況の中、幸運にも彼の前に救世主となる里親が現れる。

 現代版『母を訪ねて三千里』のようなシンプルな物語構造において、主人公を最下層の貧困から救い出すのは、バズ・ラーマンの『ムーラン・ルージュ』以来の共演となったスー・ブライアリー(ニコール・キッドマン)とジョン・ブライアリー(デビッド・ウェナム)夫婦に他ならない。空港に降り立ったサルーをスーは実の母親のような優しい笑顔で迎え抱き締める。赤毛のパーマで80年代のオーストラリアのマダムになり切ったニコール・キッドマンの登場により、フレームの中が圧倒的な熱を帯びるのは偽らざる事実である。ドキュメンタリー・タッチの社会派劇映画に思えた物語はその瞬間から一変し、ニコール・キッドマンやルーシー(ルーニー・マーラ)と出会い、葛藤する主人公の人間ドラマになる。かつて愛し合った伴侶だったトム・クルーズとの間に、養子の子供と代理出産した子供を持つニコール・キッドマンの実感を伴った演技の雄弁さがただただ胸を打つ。成長した我が子に、養子を取った理由を話すニコール・キッドマンの独白場面、親子4人にルーシーを交えた5人での食卓の場面は2017年上半期を代表する屈指の名場面に違いない。白ワインを一気に飲み干したルーニー・マーラは、主人公に代母への告白を促すのだが、一向に勇気が出ない男はルーニー・マーラとニコール・キッドマンの厳しい視線を浴びながらもまったく言葉が出ない。

 今作の構造上の問題点は、前半部分の5歳時の彷徨の場面の緊迫感よりも、25歳になったサルー(デーヴ・パテール)の苦悩や葛藤がはっきりと薄まっていることに尽きる。それに対する方法論や対処法を残念ながら経験値の少ないガース・デイヴィスは持ち合わせていない。魂を撼わすようなルーニー・マーラやニコール・キッドマンの最高の演技と比すれば、デーヴ・パテールとディヴィアン・ラドワの兄弟の葛藤は凡庸で、心底物足りない。オーディションで採用し、幼少期を演じたサニー・パワールと比べても、明らかに凡庸に見える青年期の物語が、初めから結末ありきの物語の沸点を弱めてしまっている。とはいえ、ニコール・キッドマンとルーニー・マーラが半径50mのテーブルで対峙した5人の食卓の場面だけは絶対に観ておいて損はない。もちろん、様式美に帰すクライマックス場面にもハンカチが欠かせなかったのは事実だが 笑、今作は前半部分の圧倒的なリアリティ、そして後半部分のニコール・キッドマンとルーニー・マーラにこそ見所が集約される。2000年代のニコール・キッドマンの献身的成長は言わずもがなだが、ルーニー・マーラの圧倒的な成長ぶりに筆者は思わず目頭が熱くなった。物語構造を考えるならば、ルーシーは今作においてそっくりそのまま削除すべき蛇足の人物の筆頭格ながら 笑(彼女が出る場面をそっくりカットして、90分に纏めた方が再会の場面も間違いなく感動的だったはずだが)、彼女が主人公にもたらした精神的変化はやはりルーニー・マーラにしかなし得ない深淵を探っている。
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