【第801回】『美女と野獣』(クリストフ・ガンズ/2014)


 フランスの片田舎、ベッドに座る娘と息子に絵本を読み聞かせる若い母親の姿。本のページを開くと、てんとう虫が現れるが、母親は子供たちに「ねがいごとをしたか」確認し、てんとう虫の背中にゆっくりと息を吹きかける。最愛の妻を亡くし、男手一つで3人の娘と息子たちを育てた裕福な父親(アンドレ・デュソリエ)はマーメイド号やトリトン号など計3隻の船を持つ港町の名士的存在だった。しかしある日の航海の帰り道、嵐と高波に呑まれたことで3隻の船は転覆し、全ての財産が地中深くに水没する。それから1ヵ月後、一家は破産を迎え、裕福な家族だった一家は田舎町のボロ屋へと引っ越す。名士だった一家の没落を街の人々は嘲笑う。裕福な暮らしに慣れた双子の姉、アンヌ(オードレイ・ラミー)とクロチルド(サラ・ジロドー)は手狭な部屋での貧乏な生活が受け入れられない。だが末娘のベル(レア・セドゥ)だけは家族勢揃いの束の間の生活に幸せを感じていた。一ヵ月後、父親のマーメイド号が引き上げられたという報せを受け、兄弟たちは色めき立つが、借金をしたかつての部下ペルデュカス(エドゥアルド・ノリエガ)に船ごと差し押さえられ、父親は船体に近付くことさえも許されなかった。大雨の夜、失意のどん底にある父親は森の中に迷い込み、雪に足を取られた馬は骨折する。安楽死させる猟銃も持ち合わせていない父親はやがて迷宮のような屋敷に迷い込み、ベルのことを考えながらバラの花を摘んでしまったことで悪魔の契りを結ばされる。

 1週間の猶予がたった24時間だったり、白いバラの赤いバラへの変更など細かい改変はあるものの、前半45分の展開は1946年のジャン・コクトー版『美女と野獣』の世界観を見事に踏襲している。しかしジャン・コクトー版の重要なキャラクターだったアヴナンは出て来ない。映画は父親に摘まれてしまった赤いバラと引き換えに、末娘のベルが家族の皆殺しを免除される代わりに、自らが犠牲になろうとする。2人の姉が冷ややかに事態を見つめるのは同じだが、安楽死寸前だった父親の馬が包帯を巻かれ回復し、彼女をこの世とあの世の境目にある野獣の宮殿へと導いて行く。ジャン・コクトー版ではヒロインの聡明な態度に、哀れを感じさせる野獣はただただオロオロするばかりだったが、女性上位時代となる21世紀のフランス映画では美女と野獣とが口喧嘩し、対等に張り合う。ベルは内心、野獣の風貌に恐怖を抱きながらも、ジャン・コクトー版のように卒倒して倒れることはない。金色に輝く鹿に導かれ、森の中を追いかけるベルの様子は、さながらスタジオ・ジブリの宮崎駿のアニメのヒロインによく似た既視感を覚える。冒頭、自分を生んですぐに亡くなった母親の石像に話しかけるベルの姿に呼応するかのように、金色のシカは散り行くバラで敷き詰められた道の先で、胸を射抜かれた美しい石像に出会う。

 微睡みの中、夢現つに入ったヒロインはそこで野獣の悲しい過去に触れる。今作の最大の旨味はジャン・コクトー版でも原作小説でも一切触れられていない野獣の過去にフォーカスしている点に尽きる。スピルバーグやティム・バートンのダーク・ファンタジーの世界観を踏襲したクライマックス、幾分ファニーなタドゥムたちのファンタジー描写、アヴナンの代わりに強引に物語に割って入るペルデュカスとその恋人のタロット占い師の描写が、大きな障害として美女と野獣の前に横たわる。クライマックスは三隅研次の『大魔神怒る』を彷彿とさせるが、21世紀のイマジネーションではほとんど『進撃の巨人』と等価にあると言っていい。最愛の妻を金色の矢で失った野獣は、同じように金色の矢で命を奪われるが、そこへ奇跡のような救いの手が差し伸べられる。ヒロインが夢現つで見た夢は、最初のヒロインが見た夢と同化し、石像の強い思いを具現化する形でラストへと向かう。今作で白眉なのは、純粋無垢なヒロインを演じたレア・セドゥの全身全霊の演技に違いない。今作でのレア・セドゥとヴァンサン・カッセルの共演が、この後グザヴィエ・ドランの『たかが世界の終わり』へ繋がったのは云うまでもない。ジャン・コクトー版に敬意を評しながら、健全なディズニー映画とは違うフランス映画らしいラストを紡ぐ21世紀版レア・セドゥの『美女と野獣』の斬新な解釈に違いない。

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