【第817回】『たかが世界の終わり』(グザヴィエ・ドラン/2016)


 12年間もの空白の後、僕はあの人たちに会おうと決めた、僕の死を告げるために。飛行機の座席に座る男の悲しげな背中、闇夜をじっと見つめる視線、タクシーに乗り込み、行き先を告げるのはルイ(ギャスパー・ウリエル)。都会に出て作家として成功を収め、家族の残像を消し去ったはずの男は、何故か12年ぶりに里帰りをする。空港から1時間、牧歌的な風景が見える道を進むと、ルイが生まれ育った田舎町に辿り着く。実家では、次男ルイの到着を女たちは今か今かと待ち構えていた。母(ナタリー・バイ)は妹のシュザンヌ(レア・セドゥ)と並んでメイクに余念がない。その様子に心底苛立つ兄アントワーヌ(ヴァンサン・カッセル)の姿を、妻であるカトリーヌ(マリオン・コティヤール)は黙って見つめるより他ない。家族は何も言わないまま、黙って出て行った息子の到着を今か今かと待ち詫びている。幼い頃に兄と別れたシュザンヌの兄にまつわる記憶はほとんどない。父親のいない家庭では、兄アントワーヌが一家の大黒柱として居座る。明らかに粗暴な兄アントワーヌと、繊細でナイーヴなルイとは血を分けた兄弟とはとても思えない。考えてみれば兄弟ほど、不気味で現実感もない血の繋がりも珍しい。母親の子宮からこの世に生を受けた時、彼の誕生とは関わりのないはずの兄アントワーヌは弟のルイの前に何事もなかったかのように待ち構えるのである。

 1989年生まれの早熟な天才グザヴィエ・ドランの圧倒的なフィルモグラフィは、これから幾らでも伸び縮み可能であろうが、2015年の『Mommy/マミー』の主題が、2009年の処女作『マイ・マザー』に呼応していたと見れば、『マイ・マザー』から『Mommy/マミー』への流れをひとまず第1期と強引に規定することに異論はあるまい。その点で言えば今作はグザヴィエ・ドランの第2期の華麗なる幕開けと呼んでいい。母親や年の離れた妹は、ルイの12年ぶりの到着に女を隠そうとしない。明らかにアイシャドーが過剰な青みがかったメイク、母親のメイク道具を借りたシュザンヌは、普段のすっぴんから肌が呼吸出来ないほどの厚塗りで無理する。嫁のカトリーヌも姑のご機嫌を伺いながら、明らかに姑の機嫌を損なわない体で随分あっさりとした同じ青のアイシャドーでめかしこむ。ルイが到着した後も、女たちの静かなフィーバーは止まらない。そんな母親と妹の姿に苛立ちを隠さない長兄はその思いを口になど出せず、ただひたすらカトリーヌの言動を口汚く罵る。自らも同性愛者であるグザヴィエ・ドランは相変わらず女性血縁者へのミソジニーをあえて隠そうとしない。女たちの次男の帰還への欲望は止まらず、シュザンヌは当時は入れていなかったはずの両腕のピンク色のバラのタトゥーをこれ見よがしにルイに見びらかす。

 その一方で、母親は屋根裏部屋でルイを咎めた後、香水を取り出しては「嗅いでみて」とルイの気持ちを遮るかのように抱きつく。痛々しいまでに張り詰めた母子の濃密な空気は何度観てもあまりにも素晴らしく、思わず涙腺が緩む名場面に違いない。女たちは無意識の中で去勢された男根を取り戻させようと躍起になるが、永遠に浮かばれない私生児であるルイは自らのホモフォビアを全身全霊で表現するかのようにただただ受け身で揺蕩う。濃厚だがてんでバラバラな血縁関係の中で、ただ1人血の繋がっていないカトリーヌだけはルイと異質なコミュニケーションを図ろうとする。粗暴な夫とのコミュニケーションに悩みながら、それでも繊細なルイの寂し気な目に血の繋がらない兄嫁だけは気付いてしまう。姑のナタリー・バイに追従するかのように、申し訳程度に薄いブルーのアイシャドーを入れたカトリーヌのエクストリーム・クローズ・アップはお世辞にも絶世の美女であるマリオン・コティヤールの美しさを据えているとは言い難い。過剰に盛られたアイシャドーに対し、チークや頬は彼女のナチュラルな肌を白日の元に晒し、首筋のシワはリアリズムとしても幾分ショッキングにも思える。それに対しギャスパー・ウリエルの顔を接写したフレームワークの圧倒的な美しさが息を呑む。野生的で少し伸びかかった髭、首筋にうっすらと浮かぶ血管、野太い声を発する力強い喉仏はホモフォビアの監督の強烈な感性を声高に叫ぶ。クライマックスの奇怪な演出には、真っ先に天国のジョン・カサヴェテスの演出が頭をよぎる。抑揚のない物語ながら、その映画的なフィルムの生々しさや艶めきは管理人のここ数年の鑑賞履歴においても、際立ってレベルが高い。思い返せば、冒頭部分のマリオン・コティヤールとレア・セドゥを背面から据えた無防備な生脚こそが、今作の恐るべき世界観を決定付けていたのは間違いない。

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