【第818回】『ヴィレッジ』(M・ナイト・シャマラン/2004)


 1897年、ペンシルヴァニア州のとある村、急な斜面に作られた石碑、風の強い草原でオーガスト・ニコルソン神父(ブレンダン・グリーソン)は故人を偲ぶ。ダニエル・ニコルソン1890~1897と書かれた暮石、村では草原の上で村人全員が食事することが決まりになっていた。子供たちは配膳し、ニコルソン神父と村の長であるエドワード・ウォーカー先生(ウィリアム・ハート)の掛け声で食事を頂くが、その時、村の境界線で不吉な音が響く。知的障害のノア・パーシー(エイドリアン・ブロディ)は不気味な音に大声で笑う。羊の群れを放牧し、野菜を村の畑でまかなう村の暮らしは全て自給自足で成り立っている。村人たちは年齢によってそれぞれに仕事があり、庭先を箒で清掃していた2人の少女は、草むらの陰に偶然、赤い花を見つけ急いで土の中に埋める。村では代々、赤い色をした物体は境界の外から怪物を呼び込むとして恐れられていた。平和なある日、子供たちは皮を剥がれた家畜の死体を見つけ、ウォーカー先生に相談する。村には決して森の中の境界線を踏み越えてはならないという「村の掟」があり、親世代はその掟を頑なに守るが、2人の若者はその境界線を密かに越えようとしていた。

 自分たちのフィールドのあちら側とこちら側に厳密な境界線を引き、人々を恐怖で巧妙にコントロールする小さなコミュニティの姿は、M・ナイト・シャマラン制作のTVドラマ『ウェイワード・パインズ』第一シーズンのプロトタイプのような輝きを放つ。毛皮を剥がれた家畜の死体、ドアに描かれた赤い記号、見張り台の下を通過する怪しげな影、風に揺れる木々など、M・ナイト・シャマランの意味ありげな描写は今作でも冴えに冴える。オーガスト神父やウォーカー先生たちの次の世代を担う若者たち、クリストフ・クレイン(フラン・クランツ)やフィントン・コイン(マイケル・ピット)、いじめられっ子のジェイミソン(無名時代のジェシー・アイゼンバーグ!!)らが小さい頃から村の掟を刷り込まれ、従順で臆病に振る舞うのに対し、ルシアス・ハント(ホアキン・フェニックス)と知的障害のノアだけは村の因習を恐れない。ルシアスの母アリス・ハント(シガニー・ウィーバー)は明らかに村の長であるエドワード・ウォーカーと何かあると息子は直感で気付くのだが、村のルールを守らねばならない彼らは互いのトラウマに黙って蓋をする。しかし残酷な予兆と同様に、盲目の妹アイヴィー・ウォーカー(ブライス・ダラス・ハワード)と姉キティ・ウォーカー(ジュディ・グリア)のロマンスが、この村の未来に暗い影を落とす。

 2004年当時は極めて斬新に見えた村人たちの淡い服装、赤と黄色の原色の対比とが極めてポップに見えた今作の色味だが、その後、様々なカラフルな色彩を見て回った目にはさほど驚きを感じなくなってしまった自分の感覚はある程度致し方ない。前半の演出の類稀なる緊張感はやはりM・ナイト・シャマランの抜きん出た才能を実感するが、物語の整合性という点で言えば、見張り塔の下を通過した怪しげな影の正体が一体誰だったのかと、あの巨大な塹壕のような穴は誰が掘ったのかという疑問は、やはり拭えない。ロン・ハワードの娘であるブライス・ダラス・ハワードの、盲目のヒロインの迫真の演技はその後の活躍を予感させたが、残念ながら本格的なブレイクには至らなかった。ウェス・アンダーソン組の常連であるエイドリアン・ブロディの怪演も見事だが、それ以上に神に懺悔することを恐れない純粋無垢で勇敢なホアキン・フェニックスのヒロインの救出が素晴らしい。森の中の描写には『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』のようないわゆる低予算映画の意匠を巧みに用いながら、ミニマムな物語を紡ぐM・ナイト・シャマランのフィルモグラフィの中でも味わい深い佳作である。

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