【第824回】『スプリット』(M・ナイト・シャマラン/2017)

あらすじ・結末に触れていますので、これから観る方はクリックしないで下さい

 冒頭、随分あっさりとした凶行により、3人の若者の運命は暗礁に乗り上げるのだが、ケイシー(アニャ・テイラー=ジョイ)だけは目に見える恐怖に何も言葉を発さない。後部座席に座る同級生がスプレーをかけられて気を失っても、助手席で甲高い絶叫を上げるわけでもなく、ドアにかけたその指でそっと外に出ようとする。女はなぜ言葉を発さないのか?それは次第に明らかになるのだが、今作も冒頭部分で彼女たちを閉じ込め、強引にルールを設定するM・ナイト・シャマランの手際の良さが素晴らしい。思えばシャマランの映画は、ある限定された空間から脱出不可能な登場人物たちの恐怖を何度も繰り返し描いて来た。こちら側とあちら側には境界線が敷かれ、その境界線を主人公たちが踏み越えようとする時に、あちら側の人物(時に怪物)からペナルティ(罰)という名の迫害を受けた。今作でも病室のベッドのような小さな寝具が2つ置かれた部屋はあまりにも手狭だが、ケイシーと残りの2人クレア(ヘイリー・ルー・リチャードソン)とマルシア(ジェシカ・スーラ)との間には距離がある。お情け程度でパーティに呼んだクレアとケイシーと主人公の人間関係など推して知るべしなのだが、シャマランは最初から学校生活の凡庸な描写を省略し、ゲームの中にケイシー、クレア、マルシアと我々観客とを強引に引きずり込む。その有無を言わさぬ説得力はシャマランならではだろう。

 監禁された登場人物たちに降りかかる恐怖の描写は、直近の映画で言えばフェデ・アルバレスの『ドント・ブリーズ』やダン・トラクテンバーグの『10 クローバーフィールド・レーン』とも非常に親和性が高いのだが、どちらの映画の要素を包括しつつも、作家性の極めて強いシャマランだけに、そのどちらにも似ていない微妙な手触りの作品ではある。3人の娘たちを攫った男は最初、マルシアをピックアップしたところで女たちの身体目的ではないことが明らかになるのだが、その後の展開に彼女たちが、レイプされる以上のダメージを被ったことは想像に難くない。そのわけのわからなさは肉体のダメージ以上に精神的ダメージに繋がる。その意味でまともな人生ばかりを歩んで来たセレブ候補生の10代たちの退場は至極当然のことにも思える。ウィル・スミスの雇われ監督だった『アフター・アース』でうっかり身に付けてしまったトラウマの回想描写が今作では微妙に効果を上げている。クリント・イーストウッドの『アメリカン・スナイパー』のような美談の回想描写は、その後ケイシーの逃れられないトラウマに変異して行く。KANYE WESTのはずがSnailsの『Frogbass』で小刻みなステップを踏むケヴィン(ジェームズ・マカヴォイ)の姿はシャマラン映画屈指の異形の怪物としての彼の姿を白日の元に晒す。

 明らかにダニエル・キイスのノンフィクション小説『24人のビリー・ミリガン』を翻案にした物語は、幼稚な性愛的快楽を謳歌しない犯人の恐るべき特異性を伝える。その意味ではホラー映画の殺人鬼というよりも、猟奇ミステリーに存在感を発揮した『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクターこそ今作のラスボスと比肩し得るのは間違いない。問題は未だに精神医学の分野でも賛否両論のあるDID(解離性同一性障害)のリアリティに尽きる。ロバート・オクスナムの 『多重人格者の日記-克服の記録』や前述の『24人のビリー・ミリガン』などのベストセラー小説もあるが、問題はこの解離性同一性障害の症状がどこまで画面上に定着し、どのような結び目を付けたかである。ジェームズ・マンゴールドの『アイデンティティー』やブラッド・アンダーソンの『マシニスト』、マーティン・スコシージの『シャッター・アイランド』でも多重人格者によるちゃぶ台返しが見られたが、今作のシャマランも安易なハッタリは避け、実直な心理サスペンスによって物語を駆動しようと試みるが、フレッチャー医師(ベティ・バックリー)とのやり取りは幾らなんでもくど過ぎる 笑。だがラスト10分のあっと驚くような大どんでん返しは初期のM・ナイト・シャマラン・ファンには心底嬉しい。15年前、これ程の隆盛を築き上げる前のアメコミ映画のメタ批評たり得た物語は、今再びアメコミ映画に反旗を翻す。その論証としては随分心許ないが、私はM・ナイト・シャマランの決断を100%支持する。エンド・ロールの最後の最後まで、絶対に席を立ってはならない天才シャマランの見事な復活作であり、現代アメリカ映画への捨て鉢のアンチテーゼである。
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