【第833回】『淵に立つ』(深田晃司/2016)


 とある地方都市の早朝、軽快に響くオルガンの音。10歳になる鈴岡蛍(篠川桃音)はオルガンの上に置かれたメトロノームを調整しながら、リズムに合わせてメロディを弾く。その姿に新聞を読む父親・鈴岡利雄(古舘寛治)は目線を合わせようとしないばかりか、まったく咎めようとしない。娘を急かす母親・鈴岡章江(筒井真理子)の催促の声。蛍は急いで食卓につくが、止め忘れたメトロノームだけが静かに左右の動きを繰り返す。4人がけのテーブル、食事前の「神の恵みに感謝」という宗教的儀式。母娘の食事時のクモの共喰いの会話にも、父・利雄は終始無言を貫く。4人掛けのテーブルに3人で座る食卓には、椅子が1つ余っている。父親から町工場を引き継いだ利雄はパジャマから作業着に着替える。午前9時から黙々と作業に入る町工場には従業員がいない。いかにも中小零細企業の労働環境、黙々と作業を続ける利雄の横にふと、八坂草太郎(浅野忠信)が現れる。黒のズボンに、ネクタイのない白のYシャツ姿の八坂は先月、刑務所から出所したばかりだと言う。あてはあるのかと心配する利雄に対し、山形の知人を頼るのだと男は言うが、3週間は稼ぎがない。友人のことを慮って利雄は3週間彼を雇い、部屋の一室を間借りし面倒を見る。何もそこまでと言う妻・章江の反応を尻目に、スーツ姿の男は翌日から白のつなぎに着替え、黙々と働く。殺風景な家族の食卓、子供が習うオルガンの描写には明らかに師匠である黒沢清の影響が滲む。

 陽光溢れるフェンス越しから、利雄をじっと見つめる八坂の描写は、2003年の黒沢清の『アカルイミライ』や、2015年の『岸辺の旅』の浅野忠信を真っ先に連想させる。生身の人間のようで幽霊のような浅野忠信の描写はまったく予測出来ない結末へ帰結する。核家族の幸福な風景は、八坂草太郎の登場で一変する。最初は八坂を毛嫌いしていた章江も娘の蛍が八坂に懐いたことで徐々に心を許す。日本映画にしては比較的珍しい章江のプロテスタントの描写、罪人であることを懺悔した八坂の正直さに女の心は揺らぐ。八坂が借りた畳5畳の部屋を女は興味本位で覗く。どうか電気は真っ暗にしないで下さいと懇願する男の裏側には薄暗い闇が広がるが、実はこの核家族の未来にもその闇が静かに侵犯してくる。娘のコンクールをダシに使い、静かに八坂に近付く女は背後から八坂の背中を恋い焦がれるように追うが、ドアだけは閉めようとしない。恋心は抱いても決して心は許してはいない。苦し紛れの妻の心、夫の疑心、そして何よりも穏やかだった八坂の心が、4人で釣りへ向かった日を境に一変する。4者4様のそれぞれの機微を追った前半部分の描写は、僅か数本の自主映画を制作した作家にしてはあまりにも出来過ぎ、落ち着き過ぎている。

 白のYシャツから白のつなぎへ、河原で菓子パンを食っている時に目撃した生き物の営みに触発され、男はつかつかと女に歩み寄る。一切の感情を制御する白から猛々しい赤Tシャツへの色彩的変化が、八坂の内面をエッジの効いたトーンで滾らせる。はっきり言ってその後の物語の展開は蛇足にしか過ぎない。八坂の離脱からまるで入れ子構造のように鈴岡家の前に現れた山上孝司(太賀)は因果応報を請け負う存在であり、夫婦のトラウマを再び深くえぐる。脚本の整合性にはやや難があるものの、壊れかけた核家族の姿はその醜態を白日の元に晒したまま、もう元には戻らない。心底胸糞の悪い物語は、途中退場した八坂の異常さを際立たせる。30代半ばにしてこのサスペンス描写の巧みさと男と女との絶望的な距離を綴る演出の巧さは並大抵の新人ではない。古舘寛治や中野英雄の長男である太賀の演技は今一つだし、自主映画の域を出ないものの、今作は筒井真理子と浅野忠信の素晴らしい演技に魅了される。完璧なロジックで補強した上で、しかしながら家族の描写に心底血の通わないのが決定的な弱点である黒沢清に対し、ニューカマーである深田晃司は黒沢清の脆弱性を完璧なまでに突き、逆張りで世界に挑む。カンヌ映画祭を揺るがせたポスト黒沢清最右翼の恐るべき誕生は、日本映画の核の部分で静かに世代交代を促す契機となった。

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