【第859回】『気狂いピエロ』(ジャン=リュック・ゴダール/1965)


 浴槽に浸かりながら、「ピエロ」と呼ばれるフェルディナン・グリフォン(ジャン=ポール・ベルモンド)は幼い娘を呼び、小説を読み聞かせるが娘はほとんど関心を示さない。男はイタリア人の富豪の娘と結婚しマンションを構え、そこに2人の子供と暮らしていた。息子は今週3度目の映画鑑賞に入り浸り、ピエロは妻の実家エスプレッソ邸のパーティに嫌々参加するが、すぐに飽きて帰る。家主のいない住宅に戻ると、そこにはマリアンヌ・ルノワール(アンナ・カリーナ)が椅子に座ったまま眠りこけていた。もう終電の時間はないとピエロは伝えると、自家用車でマリアンヌを家まで送る。スクリーン・プロセスと循環的な光の移動。2人は5年前、恋愛関係にあったが既に破局していた。男は結婚し、女には新しい彼氏がいたが、ピエロは男と別れろと言う。マリアンヌの部屋、開け放たれたドアと開放感のあるベランダ、再会を喜ぶ2人の隣の部屋のベッドの上に倒れた血まみれの死体、愛人を瓶で殴り殺したマリアンヌとピエロは、赤のプジョー404で逃げ去る。だが組織の非情な掟は、マリアンヌだけではなくピエロにも迫っていた。兄を探さなければと願うヒロインに対し、今の生活の全てにうんざりし疲れ切っていた男は南仏への逃避行を試みる。

 男と女、拳銃と自動車のモチーフは明らかにジャン=リュック・ゴダールの処女作『勝手にしやがれ』の延長線上にある。『勝手にしやがれ』では犯罪を犯した男の誘惑に女が乗っかるが、今作では男の現実逃避の欲望が、ファム・ファタールなヒロインの犯罪と結びつき、善良な市民であったはずのピエロは一貫して組織に追われる羽目になる。だがジャン=ポール・ベルモンドの背中には悲壮感が微塵も感じられない。『勝手にしやがれ』の脱臼するような変則的な編集のリズムの快楽は失われたものの、その代わりにゴダールのコンテクストはより重層化し、緊張感のあるショットとショットとは互いに影響を及ぼし合う。ジャンプ・カットよりも強烈なスクリーン・プロセスの運転場面、ワイドを意識したスコープサイズのロング・ショット、空や水の青々としたイメージに対し、ヒロインの服や最初に逃亡した愛車、鮮血の色などの真っ赤な原色の対比が鮮明に効いている。ピエロは欧米の現代社会に蔓延する物質主義からの逃亡を願い、男の希望は満たされたかに見えるが、米ドルを燃やしてしまった辺りから、男と女の違和感が徐々に噴出する。男は「思想」で言葉を語り、女は「感情」で社会と向き合う。マテリアリズムを破棄した男の姿に当初、女は安堵の表情を浮かべるが、その生活が長く続けば続くほど、檻に入れられた女の「感情」は疼く。車と拳銃とナイトクラブと自動車泥棒、そして女の裏切りに端を発する物語はアルチュール・ランボーの『地獄の季節』の印象的なフレーズで幕を閉じる。

該当の記事は見つかりませんでした。