【第1212回】『浜辺の女』(ホン・サンス/2006)


 ソウル市内にある呑み屋、映画監督のチュンネ(キム・スンウ)は、後輩の美術監督チャンウク(キム・テウ)を引き連れ、いつものように呑んだくれている。極度のスランプに陥り、新作の脚本が書けなくなったチュンネは後輩を西海岸のシンドゥリに誘うが、珍しく先約があると言って断る。1泊だけして帰れ、俺は残って書くと豪語する先輩に、後輩は渋々、恋人ムンスク(コ・ヒョンジョン)を連れて一緒に風光明媚なシンドゥリを目指す。監督を後部座席に乗せ、チャンウクが運転する車の助手席で、女は鼻歌を歌う。かつて自らが美術を担当した自主映画で、ムンスクと知り合ったチャンウクには奥さんがいるが、彼女との煮え切らない関係を断ち切れずにいた。やがて車は西海岸のシンドゥリに到着する。夏になる前のタイミングの平日の避暑地は閑散としているが、ペンション「白樺」のオーナーは法外な値段を吹っ掛けてくる。だが黄砂の飛んで来ないシンドゥリは心地良く、3人は刺身で酒を呑んだり、シーズン・オフのビーチで海を眺めたり、自由気ままに過ごしていた。そのうち突然、ムンスクが監督のファンだったことが明かされ、監督も満更でもない表情を浮かべるが、チャンウクは心穏やかではない。

 またしてもホン・サンス映画お得意の三角関係に彩られた2人の男と1人の女。本来、スランプを回避するためにシンドゥリの地にやって来たチュンネは、背の高い女の自由奔放な美しさにすっかり翻弄され、『女は男の未来だ』のようにどのタイミングで後輩を出しぬこうか画策している。後輩を酔い潰し、夜の浜辺で偶然にも女と落ち合ったチュンネは突然、浜辺でキスをする。「奇跡について」という未完成の草稿は、主人公が3度体験した偶然の一致を描いているが、今作も散りばめられた事象が何度も反復を繰り返す。離婚し、見境のない監督はやがて30代半ばだと思われる女を希望通りに抱くが、シナリオのアイデアは降りて来ず、この地に残る。映画は開巻から半分あたりを迎える頃、ムンスクによく似たチェ・ソンヒ(ソン・ソンミ)という女が現れ、監督の心はバラバラに引き裂かれる。だが『気まぐれな唇』のような2層構造の物語は、ムンスクがこの地に引き返したことが新味となる。3本の木を巡り、真にスピリチュアルな礼拝をした監督は、避暑地で若い女2人を抱き、突然雷に打たれたかのように貪欲な創作意欲が掻き立てられる。ドリちゃんという名の置き去りにされた白い犬、邪念をどこかに追いやる奇妙な3角形の説明、右脚を挫いた男、泥酔した自分の上を誰かが跨いだことが気にいらない女、ベッドの下に置き忘れた財布、作品を出す度にあざとさが増す巧妙なズームの多用も見逃せない。

【第1211回】『ハッピーエンド』(ミヒャエル・ハネケ/2017)


 スマートフォンの縦型のカメラに映された1本の動画、脱衣所で寝支度をする女性は無防備な背中を晒しているので、カメラを向けているのは、彼女の血縁家族に違いない。歯磨き、うがい、排泄、消灯という日頃のルーティン・ワークを覗き見るスマフォ・カメラの冷徹な視線は真っ先に、『ベニーズ・ビデオ』の主人公が夢中になった屠殺場面が大写しになったVHSや、『隠された記憶』で家の前から撮影された差出人不明のVHS映像の視点の延長線上にある。画面下のテキスト・メッセージとバルーンは、確かにそこで行われた母親の映像に、ほんの少しの不毛な色を付ける。彼女はSNS上の誰かの問いかけに、無邪気な言葉を返す。だがそこには生々しい生のやりとりなどなく、どこか寒々しいエスカレートしていく言葉の羅列だけが次々に書き込まれる。やがてその縦長のカメラは研究室のマウスに薬物を投与する。『ベニーズ・ビデオ』でスタンガンを打ち込まれた豚、『タイム・オブ・ザ・ウルフ』で人間の飢えを食い止めるために喉元を切り取られた馬のように、人間として動物を真に見下して来た少女の冷淡な眼差しによって死に至らしめられる。

 今作もこれまでのハネケ作品同様に、中産階級の緩やかな没落を描いている。ドーバー海峡に面したカレーの街に住む3世代の家族構成。建築業で一代で財を成した家長のジョルジュ(ジャン=ルイ・トランティニャン)は既に引退し、娘のアンヌ(イザベル・ユペール)を社長に、その息子ピエール(フランツ・ロゴウスキ)を専務とし、母親の元で働いている。アンヌの弟のトマ(マチュー・カソヴィッツ)は最近、再婚した美人妻アナイス(ローラ・ファーリンデン)との間に末息子のポールが生まれた。一見順風満帆に見える一家の暮らしぶりだが、その食卓はいつものハネケ作品の底冷えするようなディスコミュニケーションに包まれる。豊かな中産階級は、移民に対して身勝手な無知蒙昧を繰り返す。社会の不寛容と教養あるブルジョワジーの欺瞞、いま世界で起きていることに徹底して無関心で自閉症的な社会の闇を抱えた13歳の少女エヴ(ファンティーヌ・アルドゥアン)の登場がもたらす亀裂と波紋、突如崩れ落ちる工事現場の地滑り、事故で犠牲となった遺族を巡るロング・ショットの暴力、そしてこの家に引き取られたエヴと父親との不和。折り目正しいリバース・ショットで繰り広げられる緊張感のあるやりとりは、老人から少女へ伝播した死の欲望に他ならない。SNSの殻に閉じ籠った少女の自閉症的な病巣は、カレーの開かれた海を前にしてもただひたすら縦長の画面に帰結する。

【第1210回】『女は男の未来だ』(ホン・サンス/2004)


 ソウルに今年初めて訪れた初雪の日、目的地に向かう緩やかな坂を、ホンジュン(キム・テウ)はゆっくりと歩いて来る。家の前で待ち構えるのは大学で美術講師をしているムノ(ユ・ジテ)。映画監督のホンジュンは7年間のアメリカ留学を終え、韓国へ帰って来た。ソウル市内の一戸建てに妻と子供と暮らすムノの家を見たいと先輩は言うが、部屋が汚いからと言う嫁の言葉により、近くの呑み屋で酒を酌み交わす。全面ガラス張りの眺めの良いテーブル席に座り、すっかり酩酊したホンジュンとムノは、店のアルバイトの女の子にそれぞれ、ドキュメンタリー映画に俳優として出ないか?油絵のモデルをやらないか?と話しかけるが、警戒する女にはっきりと断られる。現像した写真を撮りに行くと後輩に伝え、気まずい空気のホンジュンは呑み屋から外に出ると、時制は突如、過去に変わる。夏の昼下がり。ソナ(ソン・ヒョナ)は高校時代の先輩に待ち伏せされている。先輩の誘いを断り、徒歩で帰ろうとするソナに対し、先輩は無理やりタクシーに押し込み、プチョンへ連れて行かれ、レイプされる。翌日、好きだったホンジュンにことの次第を話したソナの態度に男はショックを受けるが、ソナをホテルに連れて行き、汚された体を洗い、汚れを落とすために成り行きでセックスをする。

 酒を酌み交わすほどの深い仲に見えたホンジュンとムノの関係は、実はあまり親しくない。先輩のために初雪に足跡をつけなかったというムノの白々しさは、ソナと付き合う先輩に嫉妬し、アメリカに出国した先輩を出し抜き、ソナを口説く。新郎の結婚式にかこつけ、花束を手にやって来た敬語を使うムノの態度に、女は満更でもない表情を浮かべるが、翌日、待ち合わせ場所に現れたソナは、まるで別人のようなパーマをかけている。その姿に内心は意気消沈しているムノだが、連れ込んだ部屋でホンジュンに無断でソナとSEXする。穴兄弟の微妙な再会、気まずい空気、紫のマフラーを付けた女の待ち合わせと春雨の炒め物、カフェ・シャンテの写真。糟糠の妻を捨てたと揶揄された男は責任を感じながらも、チキン臭いと断罪された飲み屋を出て、自宅へと戻る。隣人と彼女の愛犬の黒い犬、泥酔し、左手の手のひらに烙印を押せと何度も乞うホンジュンの姿、ソナの幼い頃のポートレイト。クライマックス、湧き水を汲みに行ったホンジュンとソナにはカメラは向かわず、ただひたすらにムノだけを追う。サッカー・グラウンドで待ち草臥れて、学生たちと呑みに行くムノの未来は、ソナとの過去にひたすら囚われる姿とは対照的に、前だけを見つめている。彼を糾弾したミンスの姿は、空港でホンジュンとソナの間柄を見つめた自身の姿にダブる。 前作『気まぐれな唇』で味をしめた90°パンの悪意ある動き、うだつの上がらない男たちは互いに言いたいことを言い切れないまま、女に慰められる。

【第1209回】『気まぐれな唇』(ホン・サンス/2002)


 夜中のソウル、濡れた石畳の上をタクシーに乗るギョンス(キム・サンギョン)は、浮かない表情を浮かべながら、懐かしい人からの携帯電話の着信に出た。それは先輩からのチュンチョンへの誘いの電話だった。舞台ではそこそこ知られた俳優だったギョンスは、芝居ではなく映画に軸足を移すが、出演した映画が興行的に失敗し、約束されていた次回作のチャンスを失う。その時、エレベーター前で監督が言い放った言葉は、「人として生きるのは難しい 怪物になってはダメ」だった。全てを失った男は、失意のどん底の中でソウルからチュンチョンへ旅に出る。久しぶりに会う先輩と田舎で女を買ったギョンスだったが、お金で満たしてくれる欲望に価値が見出せないまま、酩酊する。翌日、帰り際の彼と対面を果たすのは、先輩の友人のミョンスク(イェ・ジウォン)だった。その夜、3人で呑む約束だったが、代行業者のいないこの地で先輩は素面のまま車に乗り、ギョンスやミョンスクを見失う。自由奔放なダンサーの彼女は、仲良くなるためにキスをしましょうとすっかり酩酊したギョンスを誘惑するのだった。

 一見して男は運命の女により、失意のどん底から立ち直ったかに見えるが、「GLORIA」と書かれたレモン色の布団の中で一夜を共にした女は、「全ては挑戦」と携帯電話で意味深な一言を発する。泣き過ぎて、腫れぼったい目を覆い隠すような黒のサングラス、すっかり険悪になってしまった先輩との関係、男は気まずさを湛えながら、静かに実家のあるプサン行きの列車に乗るのだが、鬱陶しいインテリ層を交わした先で、またしても運命の女ソニョン(チュ・サンミ)と運命的な出会いを果たす。『カンウォンドの恋』同様に、前半と後半でまるで違う二層構造の物語は、失意の救うはずのミューズと絶望的な別れをした後、より深く女に没入するうだつのあがらない男の滑稽さを描く。キョンジュで跡をつけた緑色のタートルネックのグラマラスな女に男はすっかり魅せられ、「私にとって君は本当に美しい」などと心にもない褒め言葉を使う。「いつも初心を忘れないで」という意味深な言葉を託された男は、神の啓示のようなその言葉に雷に打たれたような天啓を感じるが、男に出来ることは女への執拗なストカー行為に他ならない。惚れっぽい男の哀れな末路、「あなたの中の私 私の中のあなた」と叙情的な詩情を呟かせた一瞬の刹那、年甲斐もなく30歳の美女に恋をした男の滑稽な姿を素描する90°パン。今作は鬱陶しい雨に始まり、雨に終わる。運命の女を待ちきれなかった男は、キョンジュの天気に運命を翻弄される。